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コンピュータの時代へ

1967-1979

1965年、イタリア・オリベッティ社が、大型コンピュータと機械式電動計算機のギャップを埋める卓上コンピュータを発表した。そして1967年、この「プログラマ101(P101)」が日本でも発売された。
「P101」は、プログラムできる計算機であった。論理判断機能を持ち、外部記憶装置としてハンディな磁気カードを採用し、従来は大きなコンピュータしかできなかったプログラムやデータの外部記憶を可能にした画期的な製品だった。オリベッティは、世界で初めてコンピュータを机の上に乗せたのである。
「P101」はヒット商品となった。当時の日本オリベッティは社員数が約900名であったが、全社をあげて「P101」を販売し、大手の製造業などをはじめ研究開発部門や生産管理の部門などに広く受け入れられた。販路も拡大し、これまでの計算機やタイプライターの顧客とは異なるマーケットを開拓していった。

「P101」に続き、1970年にはデータ通信制御用ミニコンを含むオンライン・ターミナル・システムを発表した。また、現在のオフィス・コンピュータのはしりとなった超小型コンピュータ「オーディトロニック770」も発売した。そしてこの後、当社のコンピュータはデータ通信の技術と結合することにより、金融機関におけるオンライン端末機へと進化していくことになる。
金融チャネルでは、記録計算機に続いて「MICR(Magnetic Ink Character Recognition/磁気インク文字認識)エンコーダー」のブームが到来した。「MICRエンコーダー」によって印刷された文字は、電子的な読み取りが可能になるため事務処理を大幅に効率化できる。そして1965年には銀行オンラインシステムが正式に稼働し当座預金がオンライン化するのに伴い、この「MICRエンコーダー」の需要が台頭してきた。また1967年の信金オンラインがその趨勢に拍車をかけ、1968年頃には受注が急増した。1973年には金融機関への「MICRエンコーダー」販売は累計3000台を突破、1975年には5000台を超えた。

この「MICRエンコーダー」は、第一銀行(現・みずほ銀行)の事務合理化の話からニーズを知った当社の一人の担当者が育てあげた製品である。当時、イタリア・オリベッティ社には「MICRエンコーダー」があったものの、そのまま日本で使用することはできなかった。しかし、いろいろ研究して改良を加えれば売れるに違いないと確信した担当者は、イタリアのポンツィという技術者を説得して日本仕様の「MICRエンコーダー」を実現した。そしてまずは第一銀行で119台が動き出した。それからは担当者の予想を上回る爆発的な売れ行きとなった。当時の担当者は「オリベッティの製品を大銀行が買ってくれるということ自体、キツネにだまされているような思いだった」と社内報で語っている。当社はまだまだ小さな会社であった。それに対して大手銀行は容易には入り込めない存在であったのである。

そうした都市銀行など大手の金融機関への当社の新たなアプローチは、「国際業務」と呼ばれた分野から始まった。営業店端末は多くの国産メーカーがすでにおさえており、そこに入ることは不可能に近い。そのため、難易度が高くほかのメーカーが参入したがらない分野である国際業務からの参入を企てた。難しいからこそ可能性があると考えたのである。
当社の国際業務は、1969年の三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)の外国為替端末に始まる。この外為関連業務を手がけたことで、関連する専門的な情報も入手できるようになった。業務を通じて、外為特有の専門用語をはじめ多くの知識を学んだ。そして1974年3月には、ミニコン「VECTOR5000」を使用した同行の外為業務オンラインが稼働した。この時期の外為関連システムの経験が、その後のSWIFTビジネスにつながっていく。
農協市場も拡大し、1960年代後半には、会計機販売だけでなくIDPシステムの導入が全国的に広がっていった。当社はこの動きをさらに加速するため、1971年には第1回農協オンラインセミナーを開催し、さらに組織的な営業を展開した。そして1972年、「TC380」による東京都農協オンラインが全国系統オンラインシステムの第1号として稼働した。そして1975年以降は、「TC800」がこれを受け継ぎ、各県農協オンラインシステムを担っていく。
1975年に、オフィス・コンピュータ「A5」「A7」とともに発表された「TC800」は金融機関向けインテリジェント・ターミナルとして開発されたもので、信用金庫窓口機としても大量に受注した。

この時期には、社会文化活動が継続的に展開された。1969年には、世界文化交流を目的に市川崑監督が監督した記録美術映画「京」が完成、日生劇場で記念試写会を開催した。また、1970年に横浜に完成した中央倉庫は、著名な建築家である丹下健三氏の設計によるものであった。
1970年には、文化広報誌『SPAZIO』を創刊している。『SPAZIO』は、オリベッティ社の母国であるイタリアと日本をむすぶ文化誌として誕生した。年2回の刊行を続け、徐々にその評価が高まっていった。そして1995年には同誌の鈴木敏恵編集長が、『SPAZIO』の編集を通して地中海文化の紹介に多大な貢献を果したとして、「地中海学会賞」を受賞している。その後2000年発行の第59号からは、ジェトロニクス社の母国オランダをはじめとするヨーロッパやアメリカと日本をむすぶ文化広報誌として生まれ変わり、2004年の第63号からは電子化されて当社の公式サイト上で公開されるようになった。
また1970年には、東京オリンピックと同様に、大阪万博のプレスセンターの設営と運営に協力した。プレスセンターで当社機器の説明にあたる女性スタッフのコスチュームは、『SPAZIO』誌への寄稿を通じて当社と交流のあった当時若手のファッション・デザイナー三宅一生氏に依頼し、その斬新なデザインのジャンプスーツは大きな話題となった。