「石畳の上にも10年」
−コミュニケーション奮闘の記−
〜SPAZIO 第59号より〜

阿部 雅世

東京から、ミラノに居を移して10年になる。ミラノという町は、国際的なフェアやファッションショーが目白押しに開かれる町なので、外国からやってくるビジネス客が絶えることがない。留学や仕事で、この町に住んでいる外国人も多い。特に、ヨーロッパの殆どの国は地続きで、日本で育った日本人である私の感覚からゆくと、国というよりは、県のような感じであるから(ECが統合して、現実的にも、その感がより強まった)、各地から車で引っ越してきて、ここで暮らしている外国人もたくさんいる。

その町を拠点にして、デザインのプロジェクトにいそしむ「外国人」となって10年になるわけであるが、デザインの仕事といっても、設計図を書いたり、スタイリングをするだけではなくて、デザインするべきもののあり方や新しい素材の開発や研究をデザインに応用してゆく、という、実験的なことを仕事にしているので、気がつけば、私のプロジェクトに関わる人々に、互いに必要とするなら、その人が「なにじんか」を問うてる余裕はない。まったく文化の背景が異なる、つまりは常識の異なる人々とのプロジェクトが殆どで、文字通り、国境や文化を越えて「話を通じさせなければ」、何事も前に進まない状況にある。「言っておいたんだけどなあ」なんていって、頭を掻いていてはすまない。いや、頭を掻くのはいいけれど、それでプロジェクトはつぶれるし、事と次第によっては、大被害、大損害が、怒涛のように、自らに降りかかってくる。

だから、きちんとコミュニケーションが取れるか、ということは、私の「この上なく楽しく、やり甲斐のある仕事が続けられるかどうか」が賭けられた、最も重大な課題である。


「見真似手振りで、何とかなるよ」と平気で言えたのは、「旅の恥は掻き捨て、それもまた思い出」という、旅行者だった時代の私の豪語であって、この土地で生活し、相手を理解し、こちらを理解してもらい、説明し、説得し、交渉し、仕事を進めはじめると、とてもじゃないが「何とかなんてならない」ことを痛感する。

1から10まで、数を指で示す。日本では、人差し指を立てて「1」。ヨーロッパでは、親指を立てて「1」。そのくらいは、日本にいたときから見聞きしていたが、1996年に、ドイツはバーデンビュッテンブルグ州の芸術家村、アカデミー・シュロス・ソリテュードに、宝くじに当たるごとく、7ヵ月間招待され、そこで暮らした時には、とんでもない「数のジェスチャー」をたくさん見た。

その芸術家村は、世界中から画家や造形作家、建築家、デザイナー、音楽家、作曲家、作家、詩人、俳優、映画監督など、かなり広い意味での「芸術家」を、古い宮殿を改装した集合アトリエに招待し、招待期間中、それぞれに自由に研究活動をさせるという場所だったが、私が招待された時期は、欧米諸国からの人ばかりではなく、半分以上が、いわば「その他の国々」出身で、招待された30数人のアーティストの国籍の数は、実に20を超えていた。大半がドイツ語を話さず、一応、芸術家村はドイツにあるのだから、希望者はドイツ語のレッスンを受けることが出来る。

先生がやって来る。さて、数を数えることから始めよう。Eins(アインツ:1)、Twei(ツヴァイ:2)、Drei(ドライ:3)…。ドイツ人の先生が、指を立てる。すると、「え、そうやって数えるの?うちでは、こうして数えるよ」と、言葉はそっちのけで登場した「手」のバラエティーと来たら、これは想像を絶していた。ロシアも違う。ハンガリーも違う。ウガンダも違う。グルジアも違う。一番凄かったのは、カメルーン出身の俳優さんの指の動きで、9とか10になると、指がつるのではないかと思うような、複雑なものだった……。

日本ではどう?と聞かれて、「1」では人差し指を立てるし、「2」はじゃんけんの「チョキ」の形、親指と小指で輪を作って、残り3本の指を立て「3」(これは、カメルーンの9と張り合って難しいと言われた。)、親指だけ折って「4」、手のひらを全部開いて「5」…と、私が説明している傍らでは、もう一人の日本人アーティストが手を開いた形から、親指、人差し指、中指、薬指、小指、と順に折って、1、2、3、4、5、とやっていた。あ、日本には2種類ある!そうだった。人に数を「示す」時と、自分が数を「数える」時とでは、「手」がまったく違うのだった。そういう二重の手をもっているのは、そのレッスンに参加していた8ヵ国の中で、日本だけだった。


情報機器が発達して、「書き言葉」のコミュニケーションが飛躍的に増える。「住んでいる場所にとらわれずに、世界中の面白いことをやっている人々とプロジェクトを組む、なんてことが実現したら、とてもすてき」などと、のんきに考えていたこともある。10年前に最新のFAXを購入したときも、これで世界の人とつながれるのだと、期待に胸を膨らませたものだ。それから、10年たって、さらに文明は進み、FAXをはるかに超えるe-mailという道具も登場して、現実的に、技術的に、夢はかなうことになった。そして私は10年間のあれこれの末、世界のさまざまな国にいる国籍も文化背景も異なる人々と、面白いプロジェクトをいくつも組むようになり、膨大な量の連絡、打ち合わせ、問い合わせなどを、日々受け取るようになった。夢を描いているときは、問題点は見えないものである。夢が実現してくると、突如として問題が山のようにそびえ立つ。

まず、最初に問題となったのは、よく考えれば、これ以上アタリマエのことはないのだが、いろんな国の外国語で送られてきたメッセージは、いろんな国の言葉で、読まなければならないこと。こちらの手持ちが少ないのに、それを察することなく、平気でドイツ語が入ってくる、フランス語が入ってくる、スペイン語が入ってくる。辞書を引く。友人にすがる。読むと言うより、これはもう解読である。

解読したら、返事である。分かってもらえるように、外国語で、こちらの意図するところを表現するのも、また難しい。文章の組み立ても、「結論を先に先に、」「説明は後に後に、」と、どこまでも、日本と逆にしていかないと、何を言っているのか分からなくなる。

うっかりと表現したこと、例えば、気軽に「赤く」と表現した時、それぞれが思い描く「赤」がちがう。「大きく」と言っても、思い描く大きさが違う。共通に理解できる凡例をあげて説明しないと、とんでもなく違うものに向かって同意していることになったりする。気づかずにプロジェクトが進めば、あとの祭りである。

○×形式も怖い。番号を振ったリストがあるとする。これを選んだ、と言う時、日本であれば、その番号を「○」で囲む、という常識がある。ところが、イタリアへ来てみると、「これ」というのもには小さな「×」をつける。日本の会社が、膨大な生産予定製品の候補のリストのなかから、「作らないことになったもの」を選び、これは「バツ」、と、そこに「×」印をつけて、イタリアの工場にFAXをする。サンプルのチェックに出かけていくと、「×」で選びに選び抜かれたサンプルが、自信を持ってずらり、という泣くに泣けない話を聞いて、もし自分のプロジェクトにこれが起きていたらと想像して、震え上がったものだ。

それ以来、新しい国籍の人と仕事をするたびに、「○」と「×」の意味を問うているのだが、例えば、ルーマニア生まれのトルコ人の写真家は、番号や単語が並んでいたら、丸で囲む。チェックボックスが付いていたら、「×」をつける、と言う。日本でも、ボックスがついていて、そこにマーキングするような申込書やアンケート用紙をよく見るが、日本では、「×」はとにかく否定の意味があるからか、チェックマーク「チェックマーク」をつけることが多いように思う。イギリスの教科書では、問いの答えるときに、否定なら「チェックマーク」、肯定なら「×」が、常識だという。ヨーロッパは「×」が肯定、というのが主流であったがそれは、文字と同じくらいの大きさの「×」の場合で、その紙全体に、たすきがけで「×」なら、ここに書いてあることは無効、という意味だという。「○」で囲む、となると、ここは問題点、あるいは疑問点というときかなあ、とも言われた。統一されたルールは、実は、まだどこにもないのである。


何ヵ国語もの完全制覇など、とても出来たものではないが、それでも相手の背景を少しでも理解できれば、こちらを理解してもらうための説明もしやすくなるというものだ。「外国人の、外国人による、外国人のための外国語」を聞くことは、相手の背景を窺い知るのに、絶好のチャンスである。

ミラノで親しくしている友人には、この国で「外人」として暮らす苦労が分かりあえる仲だからか、イタリア人以外の人も多い。その友人たちとコミュニケーションを取るのに、日本語を除いた「使えるレベルの言葉」が、こちらは「英語」か「イタリア語」しかないので、それを「共通理解語」にして、彼らと話すことになる。いずれも言語学者でなし、とにかく「使える」言葉を作るために、母国語をもとに「共通理解語たる外国語」を、自己流にでっち上げるわけであるから、その「外国語」の端々に、その人の母国語と背景を窺い知ることになる。

ミラノに来た当初、二人の「共通理解語」が、私のたどたどしくも痛々しい初期イタリア語と、彼女の(当時の私にしてみればこの上もなく流暢な)スペイン語なまりのイタリア語、というスペイン人の友人がいた。彼女は、いつも、「またあとで会いましょう」というときに、「Ti vedo dopo(ティ ヴェード ドーポ:あとで会いましょう)」と言っていたのだが、ある時、彼女の友人のイタリア人は、私がそういうのを聞いて、ひっくり返って笑っている。だって、彼女は日本人でしょう。何で、日本人が、スペイン人特有の間違いをするのか。イタリア語では、そういう言い方はしないで、arrivederci(アリヴェデルチ:また会いましょう)というのよ……。そこに、スペイン語が見えてくる。

また、同じころ、どちらもイタリア語があまりにおぼつかなくて、それでは話にならないから、英語を使って話をしていたオランダ人の友人が、「彼はとてもLong(ロング:長い)だからね」なんて言う。何が長いのか、何か話がとんちんかんだし、いろいろ問いただしてゆくと、なんと、背が「高い」と言う時に、「長い」という表現をするのか、そう言えば、「ひょろ長い」人が多い国だし、と思い出して笑ってしまった。そうして、オランダ語が見えてくる。

彼はまた、hot(ホット:暑い)と表現する以外どうしようもない、オーブンの中を歩くような「かんかんでり」の真夏日に、「今日はとてもwarm(ウォーム:温かい)だ」なんて言う。私がwarmという表現を使うときというのは、ぽかぽかと小春日和であって、この熱射病になりそうな太陽のもとで、とてもwarmなんて、生易しい表現には同意できなくて、くらくらしているのであるが、聞けば、空気の熱さに対してhotに相当する表現を、自国語で使うことはなくて、最大の暑さを表現する言葉は、warmに匹敵する言葉が限度だという。そう言えば、北国のオランダに「かんかんでり」なんてなさそうだ。

芸術家村にいたときに、いくつもプロジェクトを一緒に組んだハンガリー人の舞台衣装デザイナーと私の「共通理解語」は、ニューヨークから来た、ばりばりのアメリカ人でさえ難解とする「自家製英語」であった。それを自由自在に操り、私たちは、それはそれは互いによく理解しあえた。「その他の国々」出身のメンバーのコミュニケーションに使用される「自家製英語」を、私たちは芸術家村の名前にちなんで、「ソリチュード・イングリッシュ」と呼んでいたのだが、このコミュニケーティブで、シンプルこの上ない言語(難しい言葉や言い回しが使えないから)を、一番話が通じる正当派国際語とするならば、英語米語など、訛りの強い地方語に過ぎないと、アメリカ人のワラワラした英語やイギリス人のブツブツと音が途切れたような英語の聞き取りに苦労している内輪で豪語したものだ。

話は戻って、ハンガリー人のデザイナーだが、彼女は、「それはちょっと気に入らない」というような時、そうとは、はっきり言わず、「I don't know.(アイ ドント ノウ:ちょっと、私、わからないわ)」というような湾曲した言い方をした。きっと、ハンガリー語で、そう表現するのだ。それがまるで、日本の「そこの所は、なんと申しますか、ちょっといかがなものでございましょうか」と言うような、極端な「否定」を避けるところと似ていて、語源が日本語と同じと言われているハンガリー語の東洋性を、垣間見たような気がしたものだった。

例を挙げてゆけば、きりがない。こうして相手の背景が見えてくるという状況は、曲面の異なるたくさんの鏡に囲まれて暮らすようなものだから、相手が見えると同時に、様々に変形した己の姿も見えてくる。ターラリ、タラリ、鏡の前のがまのごとく、孤独な冷や汗をかくことになる。


私は、日本のなかでは、いつでもちょっと「はみ出していた」人間であったが、それでも幼−小−中−高−大−会社まで、日本でどっぷりと育ったので、日本のコミュニケーションを、何十年にも渡ってたっぷりと躾られてから、ヨーロッパへ来ている。日本では、あれほどおしゃべりで、オープンな性格で、コミュニケーションには困ることがなかった私も、日本の外の大海に自らを放ってみると、まったく「鍛えられていない」自分のコミュニケーション能力に愕然とし、語学能力のなさに、うろたえる日々の連続であった。

ミラノに来た当初、友達のパーティーなどで新しく人に出会うたびに、苦しい思いをした。「アナタハニホンジンデスカ?」「イエス。アイ アム 日本人」「あなたも学生?」「イエス。学生。」「何を勉強しているの?」「デザイン」「へえ、どんなものをデザインしているの?」「……」と永遠に続き、ああ、この外人は何だってこんなに質問攻めにするんだ、助けてくれい、と心の中で叫んだものだ。人と知り合うのは大変よいのだが、言葉もおぼつかないのに、この質問攻めは大変苦しい。何とか抜け出す手はないものか。そこで、じっくりまわりを観察する。誰も苦しそうじゃないし、永遠に話が弾んでいる、これはいかに。

そこで発見したのは、「切り返しの術」ともいえるものだった。別名「and you?(アンド ユー?:あなたは?)」の術」とも呼んでいる。

アナタハニホンジンデスカ?「イエス。アイ アム ジャパニーズ。アンド ユー?(あなたは?)」これで、相手は、自分の国籍から、生い立ちから、軽く10分はしゃべってくれる。で、また聞かれる。「学生なの?」「そう、学生よ。アンド ユー?(あなたは?)」これで、また10分……。

そして、この「切り返しの術」の上に、「へえ」とか「なるほど」という「相づちの術」、さらには、「それで?」とか「例えば?」という「追い討ちの術」が身についてくると、はずむ、はずむ。どこまでもはずむ。今まで息継ぎなしで泳いでいたのが、息継ぎを覚えたようなものだ。何しろ、9割は向こうがしゃべってくれる。ヒヤリングマラソンとは、このことか。マラソンは相手にさせて、こちらは時々声を掛けながら、自転車で伴走するのである。42.195キロ、軽々とゴールインである。

新たな外国語を学ぼうとするとき、もちろん、単語を一つ一つメモリーしてゆくのは、中学で、高校で、試験前にやった、あの苦しいような、なさけないような手しかないのだが、「会話について、まず習得するべきは、この数点じゃ」と発見して以来、私のコミュニケーション能力は「はたから見ると」飛躍的に上達をとげるようになる。この術を使えば、「語学能力」以上にコミュニケーションできる。「それはなぜ?」と、その国の言葉で、ひとこと聞くことを知れば、その100倍の答えが返ってくる。しかも、こちらが初心者であるのは明白であり、向こうはその国の言葉のプロであるから、赤子に説明するごとく、丁寧にやさしい言葉でこちらが分かるまで懇々としゃべってくれるのである。これ以上の楽ちんがあるだろうか。


しかし、楽ちんだけでは生きてゆけない。パーティーくらいなら伴走でも何とかなるが、生活をし、仕事をするとなると、どうしてもこちらが伝えなければならないことが、ゴマンと出てくる。「言ったつもり」が「伝わっていない」ことに、ゴマンと遭遇する。それは、日本人の私にとって、いったいとうくことなのか。

日本語の会話というのは、文化背景が同じ人々の間でのみ使われる言葉だから、わざわざ言葉にしなくても、暗黙のうちに分かることが多く、無意識のうちに省略していることが途方もなく多いのである。つくづく「内輪」の言葉であることを、痛感する。

「じゃ、阿部さん、明日8時ね」と言われて、すぐ意味が分かるのは「内輪」でであって、外に対して翻訳するならば、「明日は、いろいろとスケジュールも詰まっておりますので、朝早くて大変恐縮ではありますが、打ち合わせは、明朝8時に、ということで、いかがでございましょうか」という意味だったりする。

無意識に省略していることを意識し、外向けの言葉に翻訳し直して、初めて、誰にでも、間違いなく、伝わる言葉になる。日本語からすれば、これでもか、これでもか、と、どこまでも、とことん、しつこいほど言葉で説明して、やっと話が通じるのである。思いが通じる、なんて言うのは、この基礎があっての、その先の話だ。

しかも、話が通じるからと言って、それだけではコミュニケーションにならない。その後には、「議論する」ということが待ち構えている。

一つのプロジェクトを作り上げてゆくのに、意見を言い、意見を聞き、当然、すべて、イエス、イエス、で進むわけはなく、意見をかわす、時によっては、激しく「戦わせる」ことになる。

「戦わせる」とはいっても、それは別に人と人が戦うわけではなく、戦うのは、あくまでも「意見」なのである。しかし、ミラノに来た当初、「ノー。あなたの意見には、賛成できない」と言われるたびに、実は、否定されているのは「私の意見」であって、「私自身」ではないのに、まるで自分の全人格を否定されたような気持ちになって、それ以上、話を進める意欲をなくし、悪くすると険悪な気持ちになったものだ。

しかし、ここでよーくまわりを見渡すと、みなさん全然傷つきもせず、険悪にもならずに、悠々と議論が進んでいるように見える。これは、いかに。

日本では、目的語が往々にして省略されてしまって、それぞれの思惑で再構築されてゆきがちだ。誰が、何について、誰に向かって、話しているのか、言葉の上で明快でないことも多い。だから物事と感情の混同が起こりやすい……。

そこで、感情の矯正でもするような覚悟で、話題の焦点と感情を分離してみる。話の焦点を、感情のフィールドに、ずらさないように気をつけてみる。

すると確かに、すすむ。すすむ。話がすすむ、「議論とは、一人ではとてもたどり着けないような、最上の回答に到着するための、必須にして重要なプロセスです」という、もっともらしいが「ひとごと」だった話が、急に自分の実感に結びついてくる。

ノーと言われて、そこで傷づいている暇があったら、もの凄い勢いで問題に全神経を集中して、「それなら、こういう手ではどうだ!」とアイディアをひねり出して提案する。ノーが出るたびに、ノーに追いつめられなかったら、決してひねり出されることはなかった、とんでもないアイディアが、これ以上は出ないと思っていた知恵袋から、まだ出る。まだ出る。いくらでも出てくるのである。

物を作ってゆく時にノーを出すのは、人ばかりではない。技術的にノー。コスト的にノー。時期的にノー。時間的にノー。それは、全てプロセスであり、チャンスである。

そうして、ポジティブに「ノーが聞ける日本人」になって初めて、深い深いコミュニケーション、それも、何かを生み出すコミュニケーションに、たどり着けたような気がするのだった。


相手を知ろうとし、自分を知ろうとし、聞き、話し、説明し、議論し、さらには、提案し、説得し、交渉し、譲歩し、納得し、気がつけば、「石畳の上にも10年」である。

もともとは「石の上にも3年をもじった「石畳の上にも3年」というタイトルで、この石畳の上で「おお、そうか」「ああ、そうか」と気づいたことを書き留めておこうと思っていた。いやはや、とんでもない思い上がりであった。「日本語」モードで初期設定されていた自分の「コミュニケーションモード」を、「ヨーロッパモード」さらには「マルチグローバルモード」に変換してゆくことは、とても、ワープロのモード変換のようには簡単に操作できない。コミュニケーションは、一つ一つ体験し、手作業で築き上げてゆくしか道がない。3年では、自分の初期設定さえ、よく理解できていなかった……。

偶然がいくつも重なって、自国の海の外で人と出会う。そこでコミュニケーションをとる、ということは、いつかは「あ−うん」で伝わる「共通理解語」を、その出会った一人一人との間に、どれだけ創造することができるかに、かかっているのではないかと思う。それには「石畳の上に10年」でも、まだまだ、まだまだ、足りないのである。

(あべ まさよ 建築家・デザイナー/在ミラノ)


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