ホピ族の聖地とシーボルトとテロと
〜『SPAZIO』第61号より〜乾 竜三
私が北アリゾナの山岳地帯にあるセドナに居を構えたのは、今から五年程前のことだ。若い頃、アメリカで電子技術者の職を得、またユダヤ系の会社を経営しながら、かなりの年月を過ごしたということもあったが、帰国後のバブルで持っていた金融資産のあらかたを失ったことが、再び日本を離れた原因だった。いわば自らの不良債権を処理した結果だ。だが屋敷を売り、二十年の歳月を費やして造りあげた日本庭園への執心は、セドナに移り住んでからも募るばかりだった。
セドナは人口一万人たらずの観光地。モニュメント・ヴァレーの奇怪な赤い岩山を森林の中に移したような景観が売り物の町だ。温暖な気候に恵まれ、アメリカ西南部で一年を通して植物が生育できる場所は、サンディエゴとセドナだけだと『ウェスタン・ガーデン』という本に書いてあった。しかし水の恵みは微々たるもので、7〜8月のモンスーン期の雨と、1月から3月にかけての数回の降雪によってもたらされるのみ。ダリアや菊は開花前にドライフラワーと化し、袋を被せた葡萄は放っておくと、そのまま干し葡萄になる。土は赤い岩山が砕けて風化した微粒な砂、雨が降ると粘土化し、乾くとクレイ状になる。そのうえ強アルカリ性で全く有機物が含まれていない。だから客土と大量の堆肥を鋤き込まなくては土壌とならず、芝さえ育たない。こんな悪条件のところで、日本庭園を造るのは気狂い沙汰だと妻は一笑に付したが、ようは根気の問題だと一蹴し、庭造りへの挑戦が始まった。
幸い以前の持ち主が、杏、アーモンド、びわ、イチジク、丹波栗、桃、長十郎梨、リンゴなどの果樹を育ててくれていたので希望が湧いた。だが年間を通じてからからの晴天が続くこの地では、サボテンでもないかぎり、ちっとやそっとの灌漑では枯れてしまう。しかも水道が頼りで水量にも限度があるので、百本近くの木々にまんべんなく水遣りをするとなると、計算上、灌漑設備は八分割しなければならず、それぞれの配管には電磁弁と、それを制御する電子タイマーが要る。それを実際にやってみると大ごとだった。配管だけでも、一インチ径の硬質ビニール管を庭中に埋設し、また徐々に水を浸み込ませるための微小な穴が無数に開いた細管を、一株ごとの根の回りに設置するはめになった。つつじなどの潅木や花壇も同じで、芝生には大小十三基ものスプリンクラーが必要だった。
それでも夏ともなれば、ぎらつく太陽を見上げ、それこそホピ族のシャーマンを招いて雨乞いでもしなければならないかと嘆息する毎日が続く。そうしたある日、積乱雲が発達し、モンスーンが近いことを告げる。やがて四方八方から暗雲が集合し、突如、冷風が吹きつのると稲妻が走り、すさまじい雷鳴とともに、天の底が抜けたような豪雨が降り出す。呆気にとられている間に雲が割れて薄日がさし出すと、赤い岩山の上に三重の虹がかかる。その昔、ディスニーのファンタジアというアニメーションを見たことがあるが、まさにあの光景だ。たまにだが、ほとんど水平の虹が出現することもある。それは赤い岩山の裾に漂っているかのような摩訶不思議な気象現象で、まるで七色に染められた海に、赤い島が浮かんでいるように見える。アパッチ、ナバホ、ホピ族などのネイティブ・アメリカンが、セドナを聖地としたのはまことに納得できる話だ。
狩猟民族のアパッチや、略奪を生活手段としたナバホ族と違って、ホピ族は数百年前からグランド・キャニオン南岸一帯に定住し、農耕によって平和な生活を送っていた。北アリゾナ一帯を知り尽くしていた彼らは、いまだに「神様がグランド・キャニオンを造られたとき、お休みになったのはセドナだ」と言い伝えていて、満月の夜には民族衣装を身に纏い、レッドロックの岩棚に集まってドラムを叩き、聖なる石の輪を巡って、なにやら歌いながら踊るという。コヨーテがそれに合わせて遠吠えをする……。
さらに近年は、最キック・セラピーやニューエイジといった輩がここセドナに集まり、ベルトックという赤い岩山や、小飛行場のメサ(テーブル・マウンテン)など四カ所に点在するボルテックス(エネルギーが集中する地点。例えば竜巻の中心)のエネルギーが、アンドロメダ星雲に達していると信じるに至っては、これはもう、ホピの信仰どころではなくなった。
さて、我が家の敷地は南北に約58メートル、東西42メートルの矩形で、尺貫法では680余坪。北側に12メートル幅の舗装道路に面して約150坪の前庭があり、東西に長い50坪ほどの母屋、その西側にL字形に約30坪のゲストハウスが建っている。前庭にはヒマラヤ杉の大木や、松、マグノリア、パープル・プラム、南天、大でまり、百日紅が植え込まれ、また十株ほどの潅木が道沿いに植えられているので、ここにもいずれ日本式の庭を造るつもりだ。
肝心の日本庭園をつくバックヤードは、果樹園と菜園を除くと約400坪だが、ローズガーデンや五株ばかりの葡萄があり、ゆるい傾斜地でもあるから、実際に使えるのは300坪ほどだ。それに周囲の景観が雄大なので、たいして広く感じられない。しかし、東側に連なる赤い岩山が夕日を受けて炎のように染まるときは、無神論者の私にさえ神々しく感じられる。セドナがレッドロック・カントリーと呼ばれる所以だ。
そんな景観を借景に100坪ほどの芝を張ってモンスーンで緑となった砂漠に見立て、そのほぼ中央に流れを造り、下流に沼地を掘って八つ橋をかけ、菖蒲などを生やした。そして上流に池を造成し、石組みをして三段の滝を落とした。また流れに沿って岩を配し、水仙やムスカリ、ホスタ(ぎぼうし)等を植え、回遊式にフラッグストーンと扁平石を組み合わせた延べ壇を回し、それに沿って庭園灯を並べた。だがこれには市の条例による規制がある。セドナでは星を観るために夜空を明るくする街灯は禁止。庭園灯も12ワット未満、高さも30センチで必ず笠がなくてはならない。蛇足だが建築物にも規制がある。二階建ては崖地以外では許可されず、色も環境と調和させるために、くすんだ灰緑色か渋い茶褐色以外は認可されない。マクドナルドのMマークは、ここでは茶の地に緑色のアーチだ。
ところでセドナには園芸店が大小十軒はあるが、この北アリゾナの高地で手に入る植物は限られていると思っていたが、チューリップをはじめ、水仙の類、アイリス、百合、ぎぼうしなど、かなりの種類の球根類が揃っていた。そしてそれらはすべてオランダからの輸入品だということを説明書きで知り、これらが日本原産のものだと気付いたとき、私は当然のことながらシーボルトを思い出した。
★
近代日本の恩人といわれるシーボルト(フィリップフランツ・フォン・シーボルト)は、1796年ババリア地方のミュンヘン近郊ヴュルツブルクに生まれた。シーボルト家はヴュルツブルクの名門で、医者、大学教授、軍人を輩出。父親もビュルツブルク大学の医学部教授だった。シーボルトは同じ大学で医学のほか、自然科学、地理学、民俗学を研究し、旅行記を愛読したという。特にオランダ東インド会社の医者として、日本に派遣されたケンペルとツュンベリーの著作「日本旅行記」などは、若き日々熱中して読んだようだ。
ちなみにシーボルトの前任者ツンベルグの時代、日本からヨーロッパへの海路は、赤道をこえ、インド洋を渡り、喜望峰を迂回してアフリカ西海岸沿いに北上しなければならず、しかも帆船で半年に及ぶ航海を余儀なくされていた。その間に、激変する気温や湿度に耐えて生き延びられる植物は、ごく限られた球根ぐらいのものだった。このような状況のもとでは、いくら興味があろうと日本の植物を運ぶことは至難の技であった。これがシーボルトの時代になって、この難題をイギリスのブラントハンター達が解決。彼らは小型の温室様の箱に採集した植物を入れて温度の急変を予防し、潅水をして水分の発散を防ぐ工夫をしたのだ。
シーボルトは医学部を卒業すると、はディンフェルトで開業するが、東洋への憧れ捨てがたく、親戚や人づてを頼って、オランダ東インド会社の外科軍医少佐としてオランダ領東インドに渡る機会を得た。これは、ケンペルやツュンベリーの日本旅行記に魅せられていた彼の、日本渡航へのいわば橋頭堡だったのだろう。
1822年9月末、弱冠二十六歳の彼は三百トンのフリゲート艦に乗船し、ロッテルダムを出港。艦がバタビヤ(現在のジャカルタ)に着いたのは23年の2月中旬だった。そこで彼は、バタビヤ近郊に駐屯する砲兵連隊付軍医として配属されるが、どういうわけか、長崎の出島にあるオランダ商館長の侍医に選ばれたのだ。叔父に送った手紙に、「小生が望んでいたことはうまくいきました」云々と書いてあるところから見て、得意な運動をしたのか、あるいは何か特別の任務を引き受けたのか。また普通、初任官は少尉なのに異例の少佐に任命されたのは、いったいどういう風の吹き回しなのか?
こうして1823年6月下旬、彼はバタビヤを出港して8月中旬、長崎に着いた。当時の日本は、江戸幕府によるキリスト教徒弾圧の最中だったが、こんな危険な時期に、彼はなぜ日本渡航に踏み切ったのか。後に、禁制品であった日本の地図を持ち出そうとし、永久追放の処分を受けたり、59年に再訪日を果たした際には、アメリカに対して日本開国に関する政治的な働きかけや、ロシアへの節操を欠くともいえる情報の売込みなどを行った。しかも、このような背信行為があったにもかかわらず、本国で退役したときは陸軍少々に昇進し、準貴族に列せられている。これらを総括すると、日本の開国を睨んだオランダ政府が、外交政策を遂行する上でシーボルトの情報活動を必要としたと考えるのも、あながち不自然ではない。
そうしたシーボルトは着任したばかりで、お滝という日本女性に一目惚れして同棲をはじめる。おそらく現地妻のつもりだったのだろうが、後に彼が紫陽花を愛妻お滝にちなんで「オタクサ」と名付けたところから見ても、相当な惚れこみようだったことが窺える。それに一年後の24年、本来の任務を果たしながら鳴滝に医学塾を開き、ヨーロッパの医術を門下生達に伝授する。その塾を地名とはいいながら「鳴滝塾」と呼び、お滝との間に娘が生まれると「稲」と名付けるに及んでは、何か微笑ましくもなってくる。やがてシーボルトは、オランダ東インド植民地政府の援助を受け、出島に研究のための植物園を建設し、一千種をこえる日本の植物を栽培した。また本国への船が寄港するたびに、果実や作物の種子を送り出した。
そして四年の歳月がながれ、26年、幕府に招かれて江戸に向かう機会を得る。この旅で彼は宿場ごとに多くの人々と会い、貴重な情報を聞き込み、植物採集も怠らなかった。それらの草木はヨーロッパでは未知のものだったので、研究のために出島へ送ったり持ち帰ったりした。こうして来日五年後の27年、植民地政府は任務終了とみてか、彼の帰国を決定する。28年の9月中旬、シーボルトは準備万端を整えて乗船したが、台風に襲われて長崎に引き返すはめになった。長崎奉行はその船を臨検し、彼の行李から禁制品の日本地図を発見する。(※日本地図は船ではなく、出島の自宅から押収されたという新調査があると聞くが、私はその詳細をまだ知らない)
幕府はシーボルトを出島に幽閉し、彼に地図を贈った科により、高橋景保をはじめ、土生玄碵、吉雄忠次郎等、三十八名を投獄。翌年1月にはこのシーボルト事件に関与した容疑で、高良斉、二宮敬作等二十三名を投獄するという大事件に発展した。六十余名もの連座者は果たしてシーボルトに買収されたのか、あるいは信頼できる友人として、進んで地図や情報を提供したのか。翌年1月末、幕府はシーボルトの帰国を禁じた。そして吟味の末、再入国を禁止するという条件付で彼の帰国を許した。しかし、お滝と三歳になった娘、稲の同伴は許されなかった。29年末、シーボルトは帰国の途についた。
彼が植民地政府に提出した報告書によれば、帰国の際、生きた植物二千種、押し花等の標本一万二千点、その他、多数の文物や動物標本を持ち出したようだ。中でも貴重なのは、出島に招いた日本人絵師の川原慶賀が描いた二百余の植物細密画である。周知の通りそれらは解剖学的な精緻さで、花や茎の断面、根の形状まで詳しく写生されているばかりでなく、芸術的にも品位の高い作品だった。
帰国後のシーボルトは、これらコレクションの研究に没頭し、35年に最初の『フロラ・ヤポニカ』(日本植物図鑑)を出版している。また日本の政治事情に詳しいことから、外交面での活躍もあったのだろう。彼はハーグでヨンクヘール、英国風に言えばナイトの称号を与えられている。そして1845年7月、ベルリンで、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンというドイツ女性と挙式。彼はこの二番目の妻との間に三男二女をもうけた。
しかし、すべてが順調に運んだわけではない。シーボルトが帰国した30年にヨーロッパの列強は、オランダ南部、ワールンとフランドル地方を合併させ、ベルギーを独立させていた。こんな事情から、シーボルトのコレクションと、長い航海に生き残った草木は、ベルギーの首都となったブリュッセルとケント州に分散、移植されたのだ。
ケントの園芸家はそれらの植物を殖やし、数百万フランもの利益をあげたと言い伝えられている。特にヨーロッパの園芸愛好家を驚喜させたのは鹿子百合だった。彼らが知っていた百合は、聖母子像に描かれた、マリアの純潔の象徴である白い小さな花弁の百合ぐらいだったからだ。そして現在、ヨーロッパの在来種と思われている園芸植物には、シーボルトが日本から持ち帰ったものの子孫が多い。今でもヨーロッパの人々は紫陽花をオタクサと呼んでいる。
さて、その名の所以たるお滝さんに会いたくてか、シーボルトはオランダ貿易会社の顧問として、30数年後の1859年に再度の訪日を果たしている。このオランダ貿易会社は、かの咸臨丸や、ベリーの黒船来航後に幕府がウィルゲンボスのヒップス造船所へ注文し、建造させた軍艦開陽丸を1866年2月にオランダから輸出したり、大砲弾薬を日本へ運んだりした会社である。
シーボルトがお滝さんと娘の稲に再会したかどうかは分からない。もし再会していたなら、とんだピンカートンだ。それはさておき、シーボルトはまた絵師の清水東谷を雇い、まるで写真のような植物の細密画を描かせている(後に清水は写真家として名をあげた)。
さらにシーボルトは、61年5月に幕府の外国事務顧問になる。これによって彼は、幕府の外交政策のほとんどを知り得る立場にいたのだ。そしてシーボルトは帰国後、『フロラ・ヤポニカ』を完成し、出版するためにヨーロッパ諸国を歴訪し、また「植物カタログ」を編纂したりして金策に努めるのだが、ついに目的を達成できなかった。63年、彼はオランダ陸軍少将になって退役し、故郷へ帰り、三年後の1866年10月18日、下のライフワークをやり残したまま、七十歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。そして彼のコレクションは未亡人によってロシアに売却され、今はサンクトペテルブルクのコマロフ植物研究所に収蔵されていると聞く。ちなみにオランダの園芸家は、かつて彼が持ち帰った日本の原種植物を園芸植物に交配し、改良し続けた。今でも世界中に輸出しているものの中で、圧巻なのはやはりユリ科の植物だろう。百種をこえて芳香を放つ色鮮やかなユリはもとより、多様なぎぼうし、ムスカリ・アルメニアカム(イラン原産)、ムスカリ・チューベルゲニアナムなどなどの球根を手にするとき、オランダの選択が正しかったと思わざるを得ない。なにしろ、それらは同じ球根である玉葱や大蒜の、五倍から十倍の値段なのだから。オランダ人はすぐれて商売人である。
ところで、シーボルトは日本へ医者として派遣されたのに、なぜこれほど日本の植物に興味を持ったのか。おそらく彼は、来日してはじめて日本の植生の豊かさに目を見張ったのだろう。北ヨーロッパには、針葉樹林の下生えのスズラン、アルプス地方の岩場に自生するエーデルワイスなどあるが、およそ園芸植物として改良するに適したものは見当たらない。
南北に長く、湿潤な気候に恵まれた日本列島の多様な植物分布は、世界に例を見ない。だが、そこに住む日本人は、園芸植物への改良には手を付けず、あるがままの自然を甘受し、茶道にあるように侘びの中にその美しさを見出していたのだ。それは庭園にも現れている。
ヴェルサイユ宮殿の前庭にあるように、総じてヨーロッパの庭園は左右対称で幾何学的なのに対して、日本庭園は天然の景観を模して造られており、予期せぬところに苔や小さな植物を見出すように配植し、寺院の三尊岩は別として、石組は必ずしも安定感を尊ばず、あたかも崩落寸前下のように配置することで、自然のダイナミズムを表現する。また、うつろいゆく季節と色彩、訪れる鳥のさえずり、草むらにすだく虫の音、松籟、滝の音、水面に映る月影、それら森羅万象が組合されることによって日本庭園は完結する。
もちろん自然に対する感性はその環境によって異なる。たとえばファーブルだが、彼はプロバンス地方の生まれで、ローヌ川河口に広がるデルタの豊かな自然に育まれたわけで、バイエルン生まれのシーボルトとは、自然に対する感覚がおのずと違うだろう。およそライン川沿岸から北に住む人種は、葡萄の害虫ならいざ知らず、バッタやかぶと虫などの昆虫類も乏しい。彼等は、夏休みに南ヨーロッパを旅行して、初めて蝉の声をきいたとき、ただ煩いと感じるだけなのだそうで、まして虫の声に命の果かなさや世の無常を思うといった感性は、彼等には理解できない。だが一旦それを理解すると、小泉八雲のように日本の文化の根元に深い憧憬を持つようになる。来日後のシーボルトも、そうであったのかもしれない。
★
およそ文化というものは、その地に住んでみなければ理解の糸口さえ見出せない。アメリカや中国のような広大かつ多民族国家は、その文化の多様性から理解することがより困難となる。ニューヨーク、シカゴ、台北、香港、上海と、仕事で四十年近くにわたって移り住んだ私だが、アメリカや中国の文化を半分も理解できたとは思えない。ただアメリカについて言えるのは、この移民によって形成された強大な民主主義国家が、いまなお移民を受け入れ、変貌しつつあるということだ。その移民太刀の多くは、かつてアメリカが政治干渉したふぃリッピン、韓国、ベトナム、カンボジア、ヘルツェゴビナ等の政情不安な地域からの難民であり、彼等は一旦市民権を得ると、自由と平等、博愛と団結の象徴である星条旗の元に、第二の祖国に対する愛国心を発揮する。また彼らの多くはハングリー精神をもってアメリカンドリームに挑戦すべく勉学し、やがてあるものはベンチャー企業を創立するのだ。これが、アメリカをして強大な国家であり続けさせる所以の一つであるだろう。その反面、「移民してから三代目は、ただのアメリカ人」と、ただのアメリカ人は自嘲まじりに話す。
そういえば、チャップリン、ラフマニノフ、ヨウヨウ・マ、ヘンリー・フォード、アインシュタイン、フォン・ブラウン、そして、かのワールド・トレードセンタービルを設計した日系建築家ミノル・ヤマザキといった人々は、移民の一代目か二代目であり、ある種の政治的難民でもあった。彼らが多様なアメリカの芸術、工業、科学、先端技術の基盤を築き、そしていま、新たな移民達が先達の跡を継ごうとしている。
9月11日、あのテロ事件が起きたとき、それまでベービー・ブッシュとかアクシデンタル・プレジデントなどと揶揄されてきた大統領が、一躍テロリズムに立ち向かうテキサス・レンジャーばりの英雄となり、上下院は大統領に対して巨億の戦費を可決し、テロリストとの戦争への全権を与えた。
家々には星条旗が掲げられ、テレビ番組『我らがジョージ・ブッシュ』というソープオペラは自主規制された。ここにきて、突如、アメリカ・ナショナリズムの高揚が巻き起こったが、インターネット上では、大統領の政策や言動を皮肉るホームページも盛んになった。これがまたアメリカの特質であり、政治的リーダーに対する批判精神が失われていない証拠であろう。
その日の朝、私は株式市況を見ようとファイナンシャル・ネットワークにチャンネルを合わせたが、目にとびこんできたのは、ニューヨーク・ワールド・トレードセンタービルのツインタワーに、相次いで二機の旅客機が激突、炎上する映像だった。まさかと思っているうちに、アメリカ資本主義の象徴は崩壊する。そして普賢岳の土石流とみまがうばかりのすさまじい塵煙がおさまると、現代のバベルの塔はあっけなく潰え去っていた。言語道断、まことに痛ましい事件であるが、同時に、金融機構の崩壊はさらに世界的な金融不安という最悪の事態を招くと、私は思った。ワールド・トレードセンターには、メリルリンチやモルガン・スタンレー等の大手証券業者、そして日本の富士銀行やシティコープなどの世界的な大銀行がオフィすを構えている。1993年に起きた同ビル地下駐車場の爆破テロ事件以来、FRBが金融業者に対して指導したバックアップ機能は果たして働くだろうか? でなければ、スーパーコンピュータ全てのメモリーは霧散してしまう。万が一そんなことになれば、いまやコンピュータ・ネットワークで結ばれている世界の金融機構は、支払不能といった不測の事態に陥る。
そんな不安を裏書するように、その日、ニューヨーク株式市場は閉鎖され、ウォール・ストリートへの交通も遮断された。それでなくてもリセッションに入っていた市況が、さらに悪化するのは明らかだった。案の定、市場が再開されると売りが殺到した。注目していた民間航空株が寄りついたのは三時間後だった。平均して40ドル程度だったそれらの株価は、20ドルぎりぎりまで急落した。なんと数時間のセッションで、50パーセントの価値が喪失した。しかしFRBの対応は素早かった。まず金融業者に対して資金の補給を声明し、その後の二週間で1.5パーセント、金利を引き下げた。また連邦政府による民間航空企業への特別融資が実施された。テレビでは株を買い支えるのが愛国心の発露だと訴え、あるニュースキャスターは自分も株を買ったと、苦笑混じりに話していた。
幸い金融ネットワークには大した支障もなく、10月上旬には株式市況は上昇に転じたが、その一ヶ月間に、売り方が得た利益は莫大な額であっただろう。所詮、投機に愛国心など発揮する余地はない。投機という行為はなんと正直ではないか。
ところでこの投機は、大阪北浜の米相場と、アムステルダムのチューリップ相場が嚆矢と言われている。まず相場を立てるには、現物商品の証券化(金額を明記し保証された券)が必要になると同時に、その証券を売買する市場がなければならない。世界最初の証券取引所が建設されたのはアムステルダムで、その後、新世界に移住したオランダ人は、現在のマンハッタン島に植民地ニューネーデルラントを開発して交易の拠点とし、防衛のために島の南端にニューアムステルダムの砦を築いた。その北側の城壁に沿う道が、現在の金融街ウォール・ストリートである。この偶然は、オランダ人が交易の民族であったが故の、歴史的必然であったのかも知れない。
オランダは1648年から四半世紀の間に三回イギリスと戦争をしたが、64年にイギリス艦隊がニューアムステルダムを攻撃し、オランダ守備軍は降伏した。時のイギリス国王チャールズ二世は、その地を弟のヨーク公に与えたことからニューヨークと改められた。今でもマンハッタン79丁目の角には、当時のオランダの総督、ピーター・スタイヴェンサントの子孫が住んだという邸宅が残っているし、ハーレムはアムステルダム西方約20キロにある城壁都市ハーレムがその名の由来であると言われている。ハーレムはネーデルラントの中でも、もっとも園芸植物の栽培が盛んな地方で、ヒヤシンス、チューリップ、水仙、等の栽培の中心地である。だがネーデルラントは国土の大半が海面下にあり、地質も砂地や粘土質でおよそ農耕に適した土地ではない。それを改良するにはどれほどの労力と技術資本を投入したかは想像を絶する。このような難事業は耕地の開発ばかりではなく、干拓にその例を見ることができるだろう。アイセル湖に造られた干拓地は、湖の西北に78、北東に525、南西に556、それに接した南東に956平方キロあるというが、その総合面積は実に東京の5.6倍の広さである。オランダ人は「神は海を造り、我々は土地を造った」と誇らしげに言うが、日本人が基本的に自然主義者だとすれば、オランダ人は自然の征服者といえる。
★
私は暖かい秋の日を背に浴び、春に備えて薔薇の剪定をしながら、ふと、シーボルトの遺産を植え付けてもいい頃合だと気付いた。
私は、日本水仙や百合、ぎぼうしの球根を求めに、材木や大工道具や園芸賓を売っている店へ車を走らせた。晩秋にもかかわらず、晴れわたる大空に太陽がぎらついている。いわゆるインディアン・サマーだ。
「よう、ジェニファ、なんとかやってるようだな」
「やってるようとはご挨拶ね。ここへきて、みんなテロが恐くって旅行なんか行く気にならないのよ。それで庭いじりでもしようってわけ。おかげで繁盛してるわよ」彼女はスペインなまりの巻き舌で答えた。
「だがな、炭そ菌が郵便にくっついてくるかもしれんぞ」
「嚇かす気? うちには子供が三人もいるんだ。だからジャンクメールは纏めてビニール袋に入れて燃やしちゃうのさ」彼女ははちきれそうなジーンズの尻で手を拭いた。「ところで今日はなに?」
「ホスタ・ジャポニカはあるかね?」
「ふん、ホスタ・ランシホーリヤのことね」専門家らしく学名を言う。「さては、あんたのジャパニーズ・ガーデン、やっぱり完成したんだね」小さな町セドナでは、噂は一瀉千里だ。「自分でさがしてね。手が離せないから」彼女は苗木の水やりを始めた。「球根は明るいと芽が出ちゃうから、奥の棚に置いてあるわよ」私は目ざす球根類を探し出し、ついでに牛糞を熟成させたコンポストや、ケルプと蝙蝠のグワノを混合した肥料も買うことにした。
「ところでジェニファ。あんたはどこから流れて来たんだい」
「失礼ね。私は、れっきとした土着のメキシコ人よ」ヒスパニック特有の大きな黒い目で睨んだ。土着か。なるほど。私は頷かざるを得なかった。
ニューメキシコが(現在のニューメキシコ、アリゾナ、ユタ州を包含した地域)1846年5月に始まった対メキシコ戦争に勝利した結果だ。この戦争は、テキサスがメキシコから独立し、45年に合衆国南部連合に併合されたことで勃発した。
同3月、大統領に当選したボーグは、メキシコに特使を派遣し、テキサスの南西部を流れるリオ・グレンデ川まで割譲拡大することと、ニューメキシコとカリフォルニアをも譲渡するよう迫ったが、特使は入国を拒否された。その後に成立したメキシコ政府は軍事政権で、合衆国の要求をしりぞけ、さらにメキシコ軍はリオ・グランデ川を渡河し、アメリカ軍を攻撃した。この時、アラモの砦の戦闘で英雄デビー・クロケットらが戦死した。その知らせに大統領ボーグは、議会で「アメリカ人の血が、アメリカの血で流された」と、手前勝手な演説をして宣戦布告したのだ。今回、ブッシュ大統領が議会で行った演説となんとそっくりではないか。
私は水仙や百合などの球根をカウンターに置いた。肥料類を合わせると、かなり高額だ。
「なあ、ジェニファ。シニア・プライスにしてくれないかね」 セドナでは、ゴミの収集も六十歳以上の家庭は半額の25ドルなのだ。
「うちはニュー・フロンティアじゃないわよ」ニュー・フロンティアとは自然食品店で、六十五歳以上の客には一割引きで売る。
「あんたもリタイヤ組みだから、しかたない、二割引きにしておく。ただしキャッシュよ」 彼女はレジのボタンを押しながら言った。「品物は67ドルでいいけど、取引税の6.8パーセントはまけられないのよ」ちなみにアリゾナでは、食料品など生活必需品の取引税は1.5パーセントだ。
帰路、商店の多いウエスト・セドナを抜け、観光街のあるアップダウンに至るまでの坂道からの展望は、思わず息を飲む絶景だ。紺碧の空を背景に赤い岩山が180度にわたって聳え連なり、その下の渓谷はオークなどの紅葉黄葉で一面彩られている。ネイティブ・アメリカンの聖地であったこの地が、白人の開拓者の手に渡ったのは、たかだか百年程前のことに過ぎない。
今でもアリゾナには、ネイティブ・アメリカンの広大な居留地が点在している。州の北東にはナバホとホピ。ここは、フォー・コーナーズと呼ばれる地点、アリゾナ、ユタ、コロラド、ニューメキシコにまたがる地域を含めると、北海道以上の面積があり、フォー・コーナーズにはかのモニュメント・ヴァレーがある。その西、グランド・キャニオン沿いにハラパイ。面積は四国に匹敵する。またフェニックスの当方約150キロに、フォート・アパッチ。州南部のほぼ中央、メキシコ国境沿いにトホノ・インディアン・リザベーションがある。この二つの居留地は、それぞれ九州ほどの広さだ。ただし、われわれはリザベーションを居留地を訳しているが、自治区といった方がその実体を現している。というのは、それぞれの地域にすむネイティブ・アメリカンは、独自の法治を行っているからだ。パスポートまではっこうしているところもあるくらいだ。つまり、インディアン・リザベーションは国家の中の国家なのだ。あるリザベーションにはカジノを経営する者がいて、タバコ類は無税で販売する。
しかし、だからといって、彼らがみな裕福になれたわけではない。その地の多くは高地砂漠で苛酷な自然環境にある。しかも、ここに辿り着くまでには、ネイティブ・アメリカン各族の悲惨な歴史があるのだ。白人は言った。「よいインディアンは死んだインディアンだ」と。この一言こそが、アメリカ西部開拓史の現実を物語っている。オイルラッシュやゴールドラッシュに触発された貧しい白人移民達は、西部に夢を託して続々と移住してきたが、それはイコール、次々とネイティブ・アメリカンの生活基盤である土地を奪っていくことだった。例えば、74年、サウス・ダコタのグラックヒルズで大鉱脈が発見されたとき、多くの山師が流入してきたが、この地域は67年、連邦政府によって設定されたスー族のリザベーションであり、その生活基盤であるバッファローの狩猟地でもあった。スー族の誇り高き指導者、シッティング・ブルに率いられた戦士達は敢然と反旗を翻した。カスター将軍指揮下の連邦軍264名が全滅したのは、このときの戦闘によるものだった。しかし圧倒的な連邦軍の前にスー族は降伏し、シッティング・ブルと少数の戦士達はカナダへ逃れた。また、南部アリゾナやニューメキシコのリザベーションに押し込まれていたアパッチ族は、大酋長ジェロニモに率いられて連邦軍と善戦したが、やはりその戦力には抗しきれず、86年に敗北した。押して最後のインディアン戦争は、再びサウス・ダコタのブラックヒルズで起きたが、ウッデッドニーでの連邦軍によるスー族二百人の虐殺で終結した。これ以後、ネイティグ・アメリカンは完全に戦意を失ったが、この屈服は、白人が持ち込んだ天然痘や小児麻痺がもたらしたものでもあり、また白人が与えたバーボンなどによって引き起こされたアルコホーリックも、その衰退原因の一つであった。
1887年、ついに連邦政府はそれまでの力の政策を改めて、ドーズ法を制定した。それは、従来の酋長のもとでの共同生活を解体し、それぞれの家長に160エーカー、成人男子は80エーカーを分与し、彼らの生活基盤を狩猟から農牧へ転換させようと計ったものだった。 だがその土地も、以前のそれに比べれば三分の一にしか過ぎず、三分の二は白人開拓者達に割譲されたのだ。ネイティブ・アメリカンにとって、これは背信行為以外の何ものでもなかった。また分与されたその地は農耕に適さない乾燥地域にあり、最終的にはこれらの土地も、白人の土地ブローカーに買たたかれたあげく、失ってしまった。その一つが、今でもホピ族の聖地であるセドナなのだ。
さて、この私にしても、そのホピ族の聖地に日本庭園なんかを造っている。
参考文献
『日本史年表』河出書房新社
『世界の歴史』第15巻 「近代ヨーロッパへの道」講談社
Land and People, 1 The Grolier sociery, New York
(いぬい りゅうぞう アリゾナ州セドナ在住/小説家)