ウィーテケのエメラルドの帯 《オランダ人への旅 III》 吉屋 敬

1985年頃、自作の前に座るウィーテケ。一種のだまし絵のようにテーブルクロスと皿が描いてある写実的な作品。シェル石油が購入した。 1985年頃、自作の前に座るウィーテケ。一種のだまし絵のようにテーブルクロスと皿が描いてある写実的な作品。シェル石油が購入した。

スラバヤ帰行

  スラバヤに二十年の後帰り来る
  新しき空港に南国の陽は燃えて
  二十年の後われスラバヤの土踏めり
  わが生まれし町よ
  幼き日々を過ごしし町よ

  新しきホテルや家が立ち並ぶ
  雑踏の町過ぎ行けば
  われ昔日を見つけたり
  あの美しき古木はいずこ消えゆかん
  かのベンガル菩提樹なき広場
  あっけらかんとした空虚

  スラバヤでわれ旧友に再会す
  小さき日と変わらぬ会話変わらぬ笑い
  旧友はみな昔のままの家に住み
  二十年はただその上を過ぐ

  スラバヤはわが小さき日の夢の跡
  今そこに遊ぶわれらが末の子ら
  かの麗しきマンゴの古木よ今いずこ
  われら登りし梢のいただき
      ─後略─
      (作詞:ウィーテケ/訳:吉屋 敬、以下同じ)

 ウィーテケがこの歌詞を作って歌ったのは一九七八年、オランダ本国に引き上げて から二十二年後のことだった。三十三歳のウィーテケは、この時すでにオランダでは 名の知れた俳優であり歌手でもあった。彼女の活躍は舞台や映画やテレビにとどまら ず、詩人、作詞家としても才能を発揮し、その上絵画の世界にも手を染めるというマ ルティタレントぶりだった。ウィーテケが本国に引き上げて来て以来初めてのこの「 スラバヤ帰行」は、彼女にとっては長年の望郷の思いを果たしたセンチメンタルジャー ニーであると同時に、一種の凱旋の旅、母国東インドとの新しい関わりを記念する旅 でもあった。そうした彼女の喜びも落胆も、高揚した気分も、すべてをこの歌詞から 感じ取ることができるような気がする。

 私がウィーテケに会ったのは、この時期に五年ほど先立つ一九七三年頃だった。当 時ウィーテケの隣家の住人だった日本人の紹介で、彼女は私のハーグの画廊での個展 を見にきてくれたのだ。波打ち際に戯れる裸体の群像を描いた作品を見て、その群像 が全く不要だと言ったのかその数が多すぎると言ったのかはもう記憶が曖昧になって しまったのだが、丁寧にコメントしてくれたのを覚えている。丸い童顔を包む長い金 髪が背中にまで流れ落ち、裾広がりの白いオーバーブラウスにジーンズ姿、私と同じ くらいの身長の小柄なウィーテケは少女のようにしか見えなかったが、今考えると当 時すでに三十歳だった計算になる。白い肌の色や茶色い目の色にもかかわらず、どこ となく東洋的な雰囲気をたたえた彼女は、概して大柄な白人系オランダ人にはない親 しみやすさを感じさせた。

ウィーテケの近作。白い陶器に黒い釉薬で絵付けした作品。 ウィーテケの近作。白い陶器に黒い釉薬で絵付けした作品。

 それから長い年月がたち、私とウィーテケとの縁は一見切れたように見受けられた。 彼女の舞台もテレビも見たことがなく歌も聴いたことがない私が、ウィーテケのこと を決して忘却のかなたに葬り去ることがなかったのは彼女の知名度とは全く無関係で ある。最初の出会いの時に感じた何かしら親しいもの、何かしら近しいものをいつも 胸の奥に持ち続けていたからに他ならない。二〇〇二年の秋、ハーグで開かれた友人 の展覧会でウィーテケにばったりと出会った時も、だからその三十年ぶりの偶然にそ れほど驚いたわけではなかった。私の心の中には彼女にはいつか会えるという、一種 説明しがたい確信が絶えずあったからだろう。そして嬉しいことに、彼女も私を覚え ていてくれたのだ。会場には、彼女も出展者の一人として陶器の絵付け作品を展示し ていた。白地の色々な形の陶器に、黒釉で細々と絵付けした陶器だった。すでに整形 焼成された下地に絵付けだけを彼女がしたという作品だったが、私はあらためてその 多才ぶりとバイタリティーに舌を巻かずにいられなかった。

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