イタリア12都市物語−9 フェッラーラ −小さなルネサンス− おがわひろし

〔1〕新しい都市

 エミリア州のフェッラーラ Ferraraは、ポー河の河口に近く、主流から分かれたポー・ディ・ヴォラーノ河の左岸に位置し、現在人口15万強、豊かな農産物の加工、とりわけビートを原料とする砂糖の生産でよく知られている。しかし観光的には際立った「目玉商品」がなく、一般的な知名度は高くないようである。あるイタリアの解説書にフェッラーラはヨーロッパ最初の「モダーンな都市」(città moderna)だと書いてあったので、ルネサンス時代に栄えたこの都市がどうして(?)と訝ったが、もしこの都市がある種の情緒に欠けるところがあるとすれば、それはこの「新しさ」によるのかもしれない。
 この「新しさ」とは二つの意味があるので、私なりに説明しよう。
 まず第一に、たとえばこの連載ですでに取り上げたモーデナ、ヴェローナ、マントヴァと異なり、エトルリア人などの先住民族はもとより、ローマ人さえもこのフェッラーラに都市を築くことがなかった。ローマ人がこの地に関心をもたなかったのは、おそらくアドリア海岸のファーノからボローニャ、モーデナ、パルマ、ピアチェンツァを通る幹線道路アエミリア街道からかなり北にはずれているからだろう。6世紀の末頃、南下してきたビザンティンの拠点が築かれてラヴェンナの太守管区(esarcato)に組み込まれたのが最初であるらしく、次いで8世紀後半にランゴバルドの公爵領となったあたりから歴史に記録が登場するという。つまり西ローマ帝国滅亡以後に誕生した都市だから「新しい」というわけである。(もう一つの「新しさ」については後述する。)
 その後、774年にカール大帝の意向によってフェッラーラは教皇に捧げられ、988年、法王庁はカノッサ侯爵家に封土として与える。カノッサ一族については前号の『マントヴァ』でも触れたが、マントヴァと併せてフェッラーラもまた12世紀初頭まで彼らの所領となった。ただしこの時代の足跡は全く現存しない。有名なマティルデの歿後、1115年にコムーネとなり、一世紀半ほどの自治体制が続く。この間聖ゲオルギウスのなんらかの聖遺物がもたらされ、これを奉じた大聖堂(ここではドゥオーモといわず、慣習的にカテドラルと呼んでいる)(図1)が1135年頃建立される。中世以来のゲオルギウス崇敬はヨーロッパに広く見られるが、フェッラーラでもまた都市の守護聖人として定められて今日に至る。
 しかし、これまで見てきた他の自治都市と同様に、ここでもまた中世の最後に一人の権力者が登場することになる。それがフェッラーラ北方50キロほどのエステ Este出身でランゴバルド系の傭兵エステ一族であり、オビッツォ2世侯は1267年、市民総会によって「永代君主」として認められ、以後三百五十年にわたるエステ家の統治が始まる。フェッラーラの歴史を語ることは、すなわちエステ家の事績を辿ることにほぼ尽きるといってよいだろう。
 だがその前に、イタリア・ロマネスク建築の代表的作品のひとつとされるカテドラルについて簡単に触れておかなくてはなるまい。建築の設計者は不明だが、付随するいくつかの浮彫の作者はニッコロ(あるいはニコラウス)という人で、これはモーデナ大聖堂の作者ヴィリジェルモの弟子であったと考えられる。ヴィリジェルモについてはこの連載の第2回『モーデナ』(SPAZIO no.56)において「最初の彫刻家」という呼称を与えて詳しく説明した通り、石工という無名の職人性を超えて初めて個性的な芸術表現を実現し、その後の北イタリアの彫刻に影響を与えた作家ということができる。したがってフェッラーラにおけるニッコロの仕事にはとりたてていうほどの独創性を見出すことはない。あえて見るべきものは西側正面の扉口上部のルネッタという半月形の壁面に彫られた聖ゲオルギウスの像である。絵画に現れるゲオルギウスは退治する悪竜を挟んで救い出す王女が画面に配されるのが普通であるが、ここではルネッタの主題としては特例的に、守護聖人ゲオルギウスが壁面の中央を占め、馬もろとも竜の上にのしかかるように圧倒する構図がとられていて、ロマネスク特有の簡略化された表現の範囲を出ないとはいえ迫力充分であり、往時の市民を満足させたことだろう。
 カテドラル附属博物館にはもう一つの注目すべき12世紀の大理石浮彫<月暦像>がある。これは1月から12月までの各月を、主として農事に携わる人間像によって表す図像で、中世後期のフランスおよびイタリアで広く用いられた主題であった。フェッラーラの場合は大聖堂の右側の側壁に取り付けられていたのだが、15世紀に取り外され、現在博物館に展示されているわけである。これはニッコロの作品ではなくて、パルマの彫刻家アンテーラミの弟子の一人であろうと推測されている。実はアンテーラミもこれより早く<月暦像>の連作をパルマに遺しており、それについては順序が逆になるが次号の『パルマ』の章で詳述するつもりなので、ここでは通過しておく。

SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. イタリア12都市物語 <1>
    ペルージャ――エトルリアからペルジーノまで no.55(1997年6月発行)
  2. 同  上 <2>
    モーデナ――ロマネスク街道の要衝 no.56(1997年12月発行)
  3. 同  上 <3>
    ピーサ――中世海港都市の栄光 no.57(1998年6月発行)
  4. 同  上 <4>
    パードヴァ――中世における知の形成 no.58(1999年4月発行)
  5. 同  上 <5>
    シエーナ――中世理想都市の運命 no.60(2001年3月発行)
  6. 同  上 <6>
    ヴェローナ――北方との邂逅 no.61(2002年4月発行)
  7. 同  上 <7>
    ウルビーノ――新しきアテネ no.62(2003年4月発行)
  8. 同  上 <8>
    マントヴァ――ある宮廷の盛衰 no.63(2004年4月発行)

(図1)
カテドラル正面
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〔2〕エステ家の登場

 13世紀に都市国家フェッラーラの統治者となったエステ家は、これまでこの連載で見てきたウルビーノのモンテフェルトロ、マントヴァのゴンザーガ、そしてフィレンツェのメーディチなどと並んで、イタリア文化史形成の上で大きな足跡を残した一族である。エステ家の家系図はどちらかといえば簡単である。順序に従ってそれぞれの事績の要点を列挙しておこう。
 オビッツォ2世の後、百年ほどはご多分にもれずこの都市でも皇帝派(ギベリーニ)と教皇派(グエルフィ)との対立・抗争に明け暮れて終り、文化的には何ほどのこともなかった。ただこの間に皇帝の封土だったモーデナとレッジョの二つの都市を併合し、エミリア地方の広域を支配下に収める。14世紀に入って教皇派が主導権を握り、以後フェッラーラは終始法王庁との密接な関係を保つこととなる。そんな中でエステ家の実権を揺ぎないものとしたのはニコロ(またはニッコロ)2世侯であり、彼は1385年、市の中心に城館(カステッロ・エステンセ)(図2)を建設する。ちなみにエステ家の最初の邸宅(パラッツォ・デル・コルテ)はカテドラルに面したマッジョーレ広場の西端に13世紀に建てられた。これは現在市役所になっていることもあって当初の状態がほとんど改変されているが、規模としてもさほど豪壮といえるものではない。一方カステッロはすでに存在していた物見塔を囲むかたちで造成された軍事的防衛施設であり、四周には堀が巡らされ、いくつかの「はね橋」が設けられている。つまりこれは明らかに危急に際して城主が立てこもるための城であり、君主と市民の関係が敵対的であり得ることを前提としているのである。事実、この直前に重税に苦しむ市民の蜂起があり、トンマーゾ・ダ・トルトーナという税務主任の役人が殺害されるという事件があったことが史料に見られる。これまで見てきたイタリアの他の都市、たとえばモンテフェルトロ家のウルビーノ、ゴンザーガ家のマントヴァ、そしてメーディチ家のフィレンツェなどにおいて、君主の居城がパラッツォという比較的市民に開かれた構造をもつ邸宅であったのに対して、それとは別に都市のど真ん中にカステッロを構えなければならなかったことは不幸だったといわねばならない。フェッラーラのカステッロは16世紀以降は実質的にエステ家の宮廷的な機能を強め、芸術的な要素も加えられるとはいえ、見るべきものはほとんどないといっておこう。
 ついで1391年、アルベルト侯のときに教皇ボニファシウス9世の認可を得て大学が設立され、フェッラーラは一躍文化都市の道を進み始める。そして次のニコロ3世(在位1393〜1441)の治下、あらゆる意味においてヨーロッパの他の都市と居並ぶ宮廷文化を築くことになる。彼は自らの出自をアーサー王の円卓の騎士であると自称し、その北欧的貴族文化の気風と古代ローマの伝統の融合をアイデンティティとして築くことを志向した。三人の息子レオネッロ、ボルソ、エルコレの教育のために、優れた人文学者グアリーノ・ダ・ヴェローナを招聘した。この人物はヴェネツィア、パードヴァなどで学んだあと、コンスタンティノープルに五年間滞在してギリシアの古典を精力的に研究し、フェッラーラ大学に招かれてからはいわゆる三学四科の自由学芸のうち、弁証法に代って古典の講読を取り入れるなどの改革をおこなった。前号で述べたマントヴァのゴンザーガ家の子弟の教育に当ったヴィットリーノ・ダ・フェルトレも、彼のヴェネツィアでの弟子であった。
 ニコロ3世は1438年には教皇エウゲニウス4世に働きかけて公会議の開催を誘致する。カトリック教会の最高決定機関である公会議というのは時には数年にわたる長期を費やすもので、この時も後半はメーディチ家の強引な介入によってフィレンツェに会場が移されたので「フェッラーラ=フィレンツェ公会議」と呼ばれることになる。会議の内容はここでは割愛するが、それにしてもフェッラーラの大いなる栄誉であったはずである。彼はまた、ポー河に面したあたりに新たに二つの城塞を築いたほか、郊外にヴィッラ・ベルフィオーレとヴィッラ・ベルレグアルドという別荘を建てた。
 三人の息子はそれぞれ性格を異にして個性的だったらしい。まずレオネッロLeonello (在位1441〜50)(図3)は、ピサネッロの制作した多くのメダルおよびテンペラの肖像画(1441、ベルガモ、アッカデーミア・カッラーラ蔵)でその繊細な風貌が偲ばれるが、グアリーノの薫陶を受けてとりわけ芸術文化を愛好した。史料によればレオネッロは古代と同時代の芸術に通じ、一方で虚飾や奢侈に対する関心は乏しかったとされているが、父親のニコロが収集を始めていた北欧のタペストリーには心を惹かれ、フェッラーラでタペストリーの生産を興すことに力を注ぐ。そのためフランドルやフランスから著名なタペストリー職人を相次いで招聘し、16世紀の中頃までの約一世紀も続く地場産業を築き上げた。招聘された作家たちの名前も十数人が記録されているが、残念ながら製品はほとんど現存しない。タペストリー芸術は結局イタリアではさほど繁栄せずに終ったが、わずかにフェッラーラだけがその発達史に名を残したといってよい。

〔3〕フェッラーラ公国の栄光と没落

 次男のボルソBorso(在位1450〜71)は1452年に皇帝フリードリヒ3世からモーデナとレッジョの公位を、そして1471年には教皇からフェッラーラ公の称号を授与される。前にもちょっと書いたことがあるが、中世における伯・侯・公といった称号は、北イタリアに関していえば、ドイツ皇帝から与えられることもあればローマ教皇からの場合もあってややこしく、この時代の政治体制の複雑さとある意味の未熟さを物語っている。もっともボルソは兄と反対に奢侈を好む性向で、それこそフランドルのタペストリーをはじめとする豪華な美術工芸で宮廷を飾り立てることに没頭し、また衣裳や宝飾品も贅沢極まりないものだったといわれるから、皇帝や教皇に対してそれなりの「運動」が行われただろうということは想像に難くない。
 しかしボルソはおかげでイタリア・ルネサンス美術史にとって重要な業績を残してくれた。まずはお抱えの挿絵画家タッデーオ・クリヴェッリ(1425頃〜1478頃)に命じて聖書の写本を制作させる。中世後期の貴族たちは、有名な『ベリー公のいとも豪華な時祷書』に代表されるように、美しく飾り立てた自分専用の祈祷書を所有することに意欲を燃やしたが、『ボルソ・デステの聖書』(モーデナ、エステ図書館蔵)(図4a,b)といわれる千二百ページにおよぶこの豪華本は、中世から活字印刷が普及する15世紀後半までの写本芸術の分野の中で最高の作品と評価されているものだ。
 しかしボルソの遺業として最も有名なものは、パラッツォ・スキファノイアPalazzo Schifanoiaの美術監督の仕事だろう。「Schivare la noia(退屈を避ける)」に由来するこの別邸は、はじめアルベルトの時代(1385)に着工されたものだが、ボルソがお抱えの建築家ピエートロ・ベンヴェヌーティに命じて拡張し、フランチェスコ・デル・コッサやコズメ・トゥーラなどの画家に壁画を描かせた。こうしていわば「フェッラーラ派」と呼ぶことのできる美術文化が形成されることになる。この壁画のユニークな内容については後に詳述したい。
 ニコロの三男エルコレErcole(在位1471〜1505)は一変して身辺の贅沢にはさほどの意を用いず、いわゆる建築マニアの類であった。具体的な内容について述べる前に、三十五年にわたるその在位期間における国際関係に注目しておく必要がある。すなわちこの15世紀の最後の数十年、ヴェネツィアとナポリとローマ(教皇)の三大勢力を主役に、ミラーノとフィレンツェ、さらにはフランスとスペインを巻き込んだ複雑な抗争が展開される。まずヴェネツィアが南下して法王領のフェッラーラを脅かす。教皇シクストゥス4世はナポリの脅威に対抗するためにヴェネツィアの支援を得る必要からフェッラーラを開け渡す(1483)。しかしスペインがナポリ側につき、対してミラーノとフィレンツェがフェッラーラの防衛に回る。ローマはヴェネツィアとの同盟を反古にしようとするが、ヴェネツィアはフランスの支持を得ようとする。……といった状況で、歴史上この一連の騒動を「フェッラーラ戦争」と呼んだりするらしいが、最後はどうやらヴェネツィアがフェッラーラを放棄して終ったようだ。
 周辺の諸勢力の外交のカードとして弄ばれそうなフェッラーラの地位の安定を辛うじて保ったのは、エルコレによる一連のいわゆる政略結婚の政策であった。すなわち、エルコレ自身はアラゴンのエレオノーラと結婚し(1473)、その婚礼は大変に豪華なものだったことが伝えられているが、それはともかく、長女のイザベッラ(図5)を、前号の『マントヴァ』ですでに述べたように、フランチェスコ・ゴンザーガと結婚させ(1490)、次女ベアトリーチェはミラーノのルドヴィーコ・スフォルツァに嫁がせる(1491)。跡継ぎの長男アルフォンソはその姪に当るアンナ・スフォルツァと結婚(1491)、もう一人の息子イッポーリトは政略結婚ではないが枢機卿の位を得て(1493)、教皇との関係を堅固にする。アンナ・スフォルツァが若死にすると(1497)、教皇アレクサンドル6世の側の強い望みで娘のルクレーツィア・ボルジャとアルフォンソの再婚が成立する(1501)。このときのいわゆる持参金は相当のものであったらしく、エステ側には実に幸運であった。なお悪名高きルクレーツィアにとってはこれは三回目の結婚であった。中世後期のこうした宮廷間の相関関係は、エステ家に限らず、すでに他の場所で瞥見したように、結果として中欧全体に分子構造のように有機的な均衡をもたらしたといえる。
 さて建築マニアとしてのエルコレ・デステは、古典建築の“バイブル”であるウィトルウィウスの写本や、同時代のアルベルティの著書などを愛読したらしいが、まずは前述のカステッロを改築・改装して、「城塞」から貴族にふさわしい「邸宅」への転換を図り、それまでのパラッツォから移転した。しかしなによりも大きな彼の業績は、市の北側部分の大規模な拡張事業であった。すなわちこの都市出身の建築家ビアージョ・ロッセッティ Biagio Rossettiを監督として起用し、13世紀にすでに造られていた北側の城壁を除去して堀を埋め立てて広い道路に変え(現在のカヴール通りViale Cavourとジョヴェッカ通りCorso Giovecca )、その先に新市街を建設した。中世以来の市部の面積は約200ヘクタール。それを二倍以上の430ヘクタールに拡げたのである。のちにこの新市街を「エルコレ拡張地区」(Addizione erculea)と呼ぶことになる。
 他のルネサンス都市に類例を見ないこの計画の意図として三つの要因があげられる。第一は北方からのヴェネツィアの進攻に対する防衛の必要であった。前にも触れたように、1482年から二年間続いたヴェネツィアとの抗争により、公国の領土だったロヴィーゴの町を失っており、彼らはポー河を渡っていつでも南下しかねない勢いだったのだ。拡張が予定された区域にはすでに前述のベルフィオーレの別荘やボルソ公によって創設されたカルトゥジオ会修道院など、守るべき施設が少なからず存在していた。第二にはエルコレは、おそらくマントヴァのゴンザーガに倣い、ユダヤ人の入植を進めることによって経済の振興を図ろうとし、そのための居住区を用意する必要があった。第三には自然増殖の結果としての中世の町ではなく、強力な公国の首都にふさわしい規模と景観を備えた都市空間を創出しようという願いであっただろう。

(図2)
カステッロ・エステンセ(城館)

(図3)
ピサネッロ[レオネッロ・デステの肖像]テンペラ・板 1441 ベルガモ アッカデーミア・カッラーラ
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(図4a)
『ボルソ・デステの聖書』1445-61 モーデナ エステ図書館
「創世記」部分

(図4b)
同「列王紀」部分
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(図5)
ルーベンス[イザベッラ・デステの肖像](ティツィアーノ原作のコピー) 油彩・カンヴァス 1605頃 ヴィーン 美術史美術館
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 建築家ロッセッティは、前述の東西につながるカヴール通りとジョヴェッカ通りを横軸に、南北に交差する現在のエルコレ・プリモ・デステ通り Corso Ercole I d'Esteを縦軸とした梯形の区画を設定し、三方に新しく堅固な城壁を築いた。拡張地区には幅広い直線道路を縦横に交差させ、それに沿っていくつかの貴族の邸宅や教会が新築された。それらの中でルネサンス建築の代表作の一つとみなされているのがパラッツォ・デイ・ディアマンテ(図6)である。エルコレの腹違いの兄シジズモンドのためにロッセッティが設計したもので、なんといってもその特徴は外壁のほぼ全面を覆う約一万個(8500とも12.600ともいわれる)の大理石の切石による意匠である。ディアマンテ、すなわちダイアモンド・カットを思わせるように鋭く均質に彫られた白い石片が整然と積み上げられ、イタリアの強い陽射しを受けて絶妙な明暗のパターンを炙り出す。古い市街地の建築はほとんど煉瓦づくりだから、それと対照的なこの上質な工芸的テクステュアは際立って輝いたことだろう。
 「エルコレ拡張地区」について建築史の立場から指摘されている特徴は、ルネサンス時代に広く追求されたいわゆる「理想都市」が抽象的な幾何学的都市形態のデザインであり、したがって大部分が実現することなく終ったのに対して、既存の中世都市の部分と新市街とを完璧に有機的に接合させた点である。だから現在のフェッラーラの市街地図を眺めてみると、おもしろいことには、カステッロ・エステンセがちょうど市の中心に位置し、それに接するカヴール通り・ジョヴェッカ通りがメインストリ−トとなってその南北が一体化していることが一目瞭然なのである。実際に南側の中世地区から北側に足を踏み入れると、なんの違和感もなしに自然に移動していることに気づくのである。フェッラーラの「モダーン」、「新しさ」の第二の意味はこのことであった。
 エルコレ1世の後を継いだのはアルフォンソ1世(在位1505〜34)であり、その後エルコレ2世(在位1534〜59)、アルフォンソ2世(在位1559〜97)と続くが、ここで直系が絶える。この三代に関してはほとんど語るべき業績はない。のみならず経済的な衰退が進み、この機に乗じて教皇クレメンス8世の軍がフェッラーラを占拠し、公国を継承していたアルフォンソ2世のいとこに当るチェーザレ(在位1597〜1628)はモーデナに撤退し(1598)、エステ家の領地はモーデナ公国として存続することになる。その際、書籍類と美術品のほかすべての財宝を携行することに成功し、それが現在のエステ図書館とエステ美術館の母胎となったことは、この連載2の『モーデナ』で述べた通りである。フェッラーラについていえば、エステ家の支配は完全に終焉し、ラヴェンナ、ボローニャ、などと並ぶ法王領の行政区(legazione pontificia)の一つとなる。ここでは古代ローマに倣った三年任期の百人法判事(centumviro)が行政に当ったが、それは最も保守的・反動的な上流の市民層で構成され、しかもその上にいる総督(legato)は常に教皇庁を代表する枢機卿であった。この体制は1776年のナポレオンの侵略まで二百年間続き、その間四十九人の枢機卿がフェッラーラの総督を勤めている。こうした体制の下では自治都市として興った市民的エネルギーは萎え、一切の文化的な活力を失ったのは必然のことであった。

(図6)
パラッツォ・デイ・ディアマンテ
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〔4〕フェッラーラの知の系譜

 1391年にフェッラーラ大学が創設されたことはすでに述べたが、当初は文学(一説には神学)、法学、医学および学芸(arti)の三学部が設けられた。もちろんボローニャやパリに比べれば新しいが、すぐれた教師陣の名声が轟き、15・16世紀にはヨーロッパ各地から意欲的な学生が集まるようになった。たとえばコペルニクスはクラクフからイタリアに入り、ボローニャ、パードヴァ大学で学んだのち、1503年にフェッラーラで神学の学位を得ている。またかの著名なピーコ・デッラ・ミランドラは、ボローニャのあとフェッラーラで文学と哲学を修め、さらに16世紀の異端の医学者パラケルススもフェッラーラ大学で学んだのであった。
 だが大学とは直接関係なく、ペトラルカは一時期ニコロ3世の客人として迎えられ、16世紀のイタリア最大の詩人といわれるルドヴィーコ・アリオストはレッジョの出身だが、エルコレ1世の時に召し抱えられ、特に枢機卿イッポーリトの秘書役をつとめた。この間アリオストは代表作『狂乱のオルランド』を書き、イッポーリトに献じている。現在まさに「アリオスト通り」と名づけられた街路に面して彼の家が残っている。さらに16世紀後半には詩人トルクアート・タッソがアルフォンソ2世に仕えることになり、1573年、ここで代表作『アミンタ』(邦題『愛神の戯れ』:鷲平京子訳、1987、岩波文庫)を完成させた。タッソはソッレントの生まれだが、ヴェネツィア、パードヴァなどの滞在を経て、フェッラーラにたどり着いたのだった。
 同時代のイタリア都市国家の君主に比べて、エステ家の人々の特徴を探すなら、その一つは演劇に対する非常な熱情であった。現にエルコレ1世はパラッツォ・デル・コルテの大広間でしばしば演劇ショーを開催したが、それでは飽き足らずに邸内にルネサンス最初の「劇場」といえる演劇専用の部屋を設計させた。彼はその完成を見ずして世を去り、しかも現物は後に火災で焼失するが、演劇の都としてのフェッラーラの伝統はその後も続き、1605年には建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(通称ラルジェンタL'Argenta)によって市立劇場が建設された。これは今日も各地のオペラ・ハウスに見られるような社会的階層に応じて観客席を仕切るバロック劇場の先例となるものであり、また舞台裏の可動式装置についても飛躍的な発達がなされたらしい(これもまた1679年に焼失する)。アレオッティは1618年にパルマに現存するテアトロ・ファルネーゼを完成させ、劇場建築史に足跡を残している。
 話を戻して、エルコレの宮廷では古典劇のみならず、アリオストの『カッサーリア』を初めとするいくつかの新しい喜劇が初演され、フェッラーラはイタリア近代演劇の誕生の地となったということもできる。そういう環境においてタッソの『アミンタ』が郊外のエステ家の別荘で上演されたわけである。「アミンタ」というのはギリシアのアルカディアに住む牧人アミュンタスに由来し、この戯曲は彼を主人公として豊穣の森で繰り広げられる大らかな男女の愛を歌い上げたものである。その形式は牧歌劇(dramma pastrale)と呼ばれ、演劇史上のその意義について、邦訳の訳者は「解説」の中で次のように述べている。「一五七三年、非凡な詩才によって『アミンタ』が執筆上演されたとき、牧歌から牧歌劇への移行が、一つの新しい文学ジャンルの開花が、決定的なものとなった。従来、悲劇と喜劇の傍らに存在してきた牧歌が、逆に悲劇をも喜劇をも内に取りこむことで劇としての体裁を整えながら、もはや悲劇でも喜劇でもない第三の劇、すなわち牧歌劇という新しい相貌をとるに至ったのである。」こうして確立した牧歌劇は音楽的要素を内在しており、それがオペラという音楽劇の成立を準備したというのである。前号の『マントヴァ』の章で、モンテヴェルディによるオペラの誕生について詳述したが、フィレンツェも加えて三つの宮廷が影響し合って近世の演劇文化を創造して行く経緯はまことに興味深い。
 なおタッソは1579年に狂気に陥って病院に強制収容され、七年後に退院(あるいは出獄)してローマに赴き、そこで五十歳で世を去った。

〔5〕サヴォナローラとカルヴァン

 ここでフェッラーラが宗教史の上で演じた挿話について記しておく必要がある。修道士ジローラモ・サヴォナローラは1452年にフェッラーラで生まれた。祖父はパードヴァ出身の医者だったが、フェッラーラに出てボルソ・デステに仕えた。ジローラモも二十二歳まではフェッラーラで育ち、大学で医学を修め、神学の学位も取っていた。その間ボルソ公に謁見を許されるが、そのとき彼は奢侈を好むこの君主に嫌悪感を覚えたらしい(エンツォ・グアラッツィ『サヴォナローラ』秋本典子訳、1987、中央公論社)。そして1475年に彼は故郷を捨て、ボローニャのドメニコ会修道院の門を叩いた。その後1479年にはフェッラーラに帰り、サンタ・マリーア・デリ・アンジェリ修道院に赴任、82年に一旦フィレンツェのサン・マルコ修道院に招かれるが、88年には再びフェッラーラに戻り、最終的にフィレンツェに定住するのは1490年のことである。以後の経緯はよく知られているだろう。サヴォナローラはある意味で宗教改革の先駆者とみなされるが、フェッラーラでは一度も説教をしなかったといわれる。しかしエルコレ公は彼の信奉者で文通があり、著書『天啓大要』の献呈を受けている(前掲書)。いまこの町には彼の足跡は何も残ってはいない。
 さてそれからほぼ半世紀後、周知のように、ドイツのルター、スイスのツヴィングリ、フランスのカルヴァンを中心にした宗教改革運動が起こる。このうちカルヴァンが1536年にフェッラーラに滞在した事実がある。彼をジュネーヴから招いたのはエルコレ2世の妃レナータ・ディ・フランチャであった。彼女はフランス王ルイ12世の娘であって早くからカルヴァン主義に傾倒しており、カステッロの中に特別の礼拝堂を造らせた。驚くべきことに、その内部は、祭壇周辺はもとより、すべて多色の大理石の幾何学的象嵌細工で装飾され、一切の図像が排除されているのだ。つまりプロテスタントのいう偶像崇拝否定の態度の端的な表現である。現在は天井部分に四福音記者を象徴する具象的図像が描かれているが、これは19世紀に改変されたものである。レナータの信仰はその周辺にも影響を与えたとみえ、侍従の一人が復活祭のときに聖体の礼拝を拒むという事件を起こして大問題となる(Adriano Prosperi 『Il Concilio di Trento』2001, Einaudi)。夫のエルコレがこうした動きに無頓着だったとは思えないが、教皇の監督下にある立場としては無視するわけにいかず、レナータはカステッロを追放されて市内の別の館に移される。今日パラッツォ・デイ・レナータ・ディ・フランチャと呼ばれ、フェッラーラ大学の学舎となっている。サヴォナローラはもちろんすでにこの世にいない(1498歿)が、その思想の残滓がエステ家の知性の系譜として滞留していたと考えたい。
 カルヴァンはほどなくジュネーヴに戻っているから、フェッラーラそのものでの活動はほとんどなかったようである。しかしレナータの影響は公国のもう一つの都市モーデナに及び、ここでは幅広い階層からなる強力な異端の教団が形成され、約三十年間にわたってこの都市の宗教界の実権を握るに至ったといわれる(Elena Bonora『La Controriforma』2001, Laterza)。なおレナータは夫の死後、結局はフランスに戻り、いわゆるユグノー戦争ではカルヴァン派側に立って積極的に活動し、1575年に生涯を終えた。
 実はトレント公会議以後、弾圧が厳しくなってからのイタリアでも、宗教改革の火は燻り続けていたのであり、レナータのほか、ミケランジェロと親交をもっていたことで有名なローマの貴婦人ヴィットーリア・コロンナも迫害される新教徒たちをひそかに支援していたらしい(エミール=G・レオナール『プロテスタントの歴史』1968、白水社)。宗教改革のアルプスの南での影響については宗教史の上であまり重大視されていないように見える。それというのも、完全にカトリックが制覇したこちら側ではそうした史実を黙殺しようとし、プロテスタントとしてはささやかなエピソードとして矮小化しようとしているのかもしれない。しかし事はそれほど単純な図式ではなかったということを知るべきであろう。

〔6〕フェッラーラ派の美術

 最後に、ボルソとエルコレ1世の時代に花を開かせたフェッラーラの美術を通観しておこう。それより前、15世紀中葉のレオネッロの頃には、ピサネッロ、ヤーコポ・ベッリーニ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、それにロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった画家たちが各地から招かれて、エステ家の宮廷のためにしかるべき働きをした。ピサネッロは前に触れたレオネッロの肖像のほか、いくつかのメダルを制作しているが、テンペラの肖像画は批評家ヴェントゥーリがこの画家の代表作と位置づけた美しい作品である(図3参照)。ヤーコポもレオネッロの肖像をピサネッロと競作したとされるが作品は現存しない。注目したいのはブリュッセルの画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンRogier van der Weidenの存在である。伝記によれば彼は1450年の聖年を祝うためにイタリアに旅してローマに行った際に、フィレンツェ、フェッラーラも訪ねたらしく、事実、彼が描いたレオネッロの息子フランチェスコ・デステの肖像が残されている(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)。フェッラーラにおける彼の活動は不明なことが多いが、一説によれば、レオネッロの宮廷にいたシエーナ出身のアンジョロ・パッラージオ(イル・マッカニーノ)という画家がロヒールから油彩の技法を学んだとされ、これが事実ならば美術史的に非常に重要なことだ。周知のように、油彩の技術はフランドルで発明され、この連載の『ウルビーノ』で述べたように、モンテフェルトロ公に招かれたユストゥス・ファン・ヘント(ジュスト・ダ・ガン)がウルビーノで油彩を伝えたことは間違いないが、フェッラーラもまたイタリアにおけるもう一つの新技術輸入の中心だったことになる。

 

 さて以上のような外部からの刺激を受けて、フェッラーラ独自の画家が誕生する。最初の一人がコズメ・トゥーラ Cosmè Tura(1430頃〜1495)である。まさにフェッラーラで生まれたコズメの画家としての修業に関してはよくわかっていないが、テンペラのほかに油絵具も使いこなし、明らかに前述のヤーコポ・ベッリーニやファン・デル・ウェイデンの影響が指摘されている。つまり一口でいえば北方的であり、フィレンツェ派の古典主義の影響をほとんど受けることなく、時に「特異体質」などと呼ばれる独自の表現主義的作風を築き、ボルソ公に見出されて宮廷作家となった。まずベルフィオーレ荘の内部装飾を命じられ、大半は消失したがおそらく「四季」の連作の一つと思われる<春>(1460年、油彩・板、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)(図7)が残っている。これは玉座に斜に構えて座る若い女性を描いたもので、周辺に配置されたイルカや貝殻などからウェヌスを表すものと考えられるが、裸体ではなく、ゴシック的な重厚な衣裳をつけた姿で表されている。
 ついでカテドラルのオルガンの扉絵(1469年、テンペラ)(図8a,b)を制作、これは後世解体されて現在カテドラルの附属美術館に展示されている。二枚の板からなる扉の表面には<受胎告知>、扉を開けると見える背面には<聖ゲオルギウスと王女>の主題が描かれている。特に背面の二人の主役の動的なポーズには解剖学的な正確さを無視して輪郭と明暗の強調によって対象を劇的に浮かび上がらせるコズメの様式的特徴が明確にみてとれる。コズメの個性的な芸術は近年多くの美術史家の注目を集め、「反フィレンツェ的」という意味で「擬似的ルネサンス」などと評価されることがある。
 フェッラーラ派の画家として次に登場するのは、フランチェスコ・デル・コッサFranceso del Cossa(1436頃〜1478)とその弟子とされるエルコレ・デ・ロベルティErcole de' Roberti(1451〜1491)であった。この二人の最大の作品は共作によるパラッツォ・スキファノイアの「月暦の間」(Salone dei Mesi)のフレスコ壁画(図9a−h)である。このエステ家別邸の建設の経緯についてはすでに触れておいたが、ボルソ公はピアーノ・ノービレ(字義は「貴族の階」だが通常は2階にあって宴会などが催される広間をいう)を新しく増築し、三つの部屋をすべてフレスコあるいはストゥッコで装飾させた。このうち大広間(24x11x7.5m)の「月暦の間」だけが不完全ながら残っているのである。ここでは南側の壁から始まって時計の逆回りに西側の壁まで、四つの壁面にわたって「12ヵ月」の主題が展開する。壁面は上下三段に仕切られ、上段は各月を司る異教の神の凱旋を表し、動物が引く豪奢な車や種々の象徴的図像などが賑やかに描かれ、中段は十二宮の表徴の人物や動物が表され、下段にはボルソ公そのものの季節に応じた宮廷生活の場面が描写されている。「月暦図」といってもロマネスク聖堂に見られるような農事によって季節を表す素朴な内容ではない。この全体の図像計画はピエートロ・ボーノ・アヴォガーリオという天文学者によるという説のほか、宮廷付きの人文学者でフェッラーラ大学で占星術を教えていたペッレグリーノ・プリシャーニによるものとする説もある。図像の典拠として、上段に関しては5世紀のローマの詩人マルクス・マニリウスの『天文学Astronomica』に基づき、中段の部分は9世紀のアラビアのアブ・マシャルの『天文学入門al-Madkhal al-kabir』のラテン訳(1489、アウグスブルグ)にヒントを得たという指摘もある。しかし事実は天文学よりも占星術の影響が大きいと思われ、さらに一説には、フェッラーラはタロット・カードの製作の中心であったともいわれ、これはゲームというよりは占いに使われるものだから、この時代、科学的なアストロミーと呪術的なアストロロジーがまだ未分化だった状況がうかがえる。したがってそれぞれの図像解釈はわれわれ近代人にとっては難解この上なく、詳述すれば一巻の書を必要とするだろう。
 残念ながら南と西のフレスコは欠損しているが、東側の「三月」と「四月」の作者がフランチェスコ・デル・コッサ、「五月」「七月」がその工房、「六月」「八月」の画家は不明、「九月」がエルコレ・デ・ロベルティであり、全体にコズメがなんらかの形で関わったと考えられている。二人の画家の作風については詳述する余裕がないが、ピエーロ・デッラ・フランチェスカやマンテーニャから学んだと思われる明確で細密な形態と空間の表現は、みごとにこの複雑な寓意性の図解に成功しているといえよう。このユニークなパラッツォ・スキファノイアは現在市立美術館としてフェッラーラの観光のいわば目玉となっている。
 フェッラーラ派の絵画はその後16世紀にかけて、名前だけあげると、ロレンツォ・コスタ、ガローファロ、オルトラーノ、ジローラモ・ダ・カープリなどと続いて行くが、なかでも際立つのはドッソ・ドッシDosso Dossi(1489頃〜1542)である。彼はフェッラーラで生まれ、ヴェネツィアで修業してジョルジョーネやティツィアーノと接触した後、アルフォンソ1世およびその子のエルコレ2世に仕え、約三十年間にわたり主にフェッラーラで制作した。おもしろいことにアルフォンソ公は物を作ることが好きで、テーブルや種々の箱類、チェスの駒、フルートなどの木工品のほか、陶芸もこなし、自作の什器を宴席で用いたといわれるし、またことのほか音楽を愛し、一時フランドルの作曲家ジョスカン・デ・プレを遇したこともあり、ルクレーツィア・ボルジャとの婚礼で演じられたプラウティスの喜劇ではみずからヴィオラを演奏したりしたと伝えられる。つけ加えるなら、彼は異国の珍しい動物に好奇心を抱き、ベルヴェデーレ島に私的な動物園を作り、キプロスの商人から父親に贈られた象のほか、カメレオンや豹などを飼っていたといわれる。典型的な多芸の趣味人だったのである(Andrea Bayer『Dosso Dossi』1999, Metropolitan Museum of Art)。
 アルフォンソの庇護を受けたドッソは、ローマに旅してラッファエッロやミケランジェロを知り、さらにフランドルの画家パティニールの作品やドイツのデューラーやアルトドルファーの版画を見る機会に恵まれるなどして、同時代の西欧のさまざまな潮流を吸収して独自の個性を磨き上げた。ジョルジョーネに倣って、下絵を用いず油絵具で画布に直接描いたことで知られている。
 ところで先に述べたように1598年にフェッラーラが教皇領に併合され、チェーザレがモーデナに逃れたときに疎開したドッソ・ドッシ(図10,11)をはじめとするエステ家の美術遺産の多くは、1746年にポーランド王・選帝侯アウグスト2世によって購入され、ドレスデン国立絵画館の収集に加えられた。そして20世紀にさらに離散が繰り返されて今日を迎える。私はかつてモーデナのエステ美術館を訪れたとき、ドッソの作品が五点しかなくて全体像をつかむのはむずかしいと書いたが(『モーデナ』SPAZIO no.56 1997)、それはこのような事情によるものであった。実はフェッラーラにもパラッツォ・ディアマンテの中に国立絵画館(Pinacoteca nazionale)というのがあって、フェッラーラ派の作品が多少は集められているのだが、ドッソは二、三点しかない。ところが1998年から99年にかけて、フェッラーラおよび米国(メトロポリタン、ポール・ゲッティ)で、世界の十一ヵ国、三十三の美術館と個人から集められた「ドッソ・ドッシ:フェッラーラ・ルネサンスの宮廷画家」展が開催され、はからずもその全貌を鳥瞰する機会が与えられた。そこで見られるのは、ヴェネツィアの影響を受けた鮮烈な色彩主義とフランドルに由来する克明な風景描写を駆使した独特の説得力であり、それは美術史家が指摘するような「反フィレンツェ的」な個性といってよいものだ。
 エステ家の主導による15世紀から16世紀前半にかけての美術文化を総括するなら、美術史家ピエートロ・ロンギが「フェッラーラ工房」(officina ferrarese)と名づけたように、絵画に限らず工芸、舞台美術など全般にわたる広い領域での活発な活動が総合的に展開され、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマといったルネサンス文化の大潮流に埋没することなく存在感を示したということができるだろう。私は親愛を込めて「小さなルネサンス」と呼びたい。
 とはいえ、ゲーテは1786年の10月、ヴェネツィアから船でフェッラーラに着き、「初めて私は一種の不愉快さにおそわれた。」(『イタリア紀行』)と書いて翌朝すぐに旅立ってしまった。何が不愉快なのかよくわからない面もあるのだが、最も関心のあった詩人アリオストとタッソについては見るべきものがなく、要するに街に魅力が乏しいということだろう。この時代、おそらくフェッラーラは最も停滞していたにちがいない。実は私もこの街の散策にはあまり「旅情」を感ずることができないのだ。それというのも冒頭に書いたような「モダーン」な要素が肌に合わないということもある。それに加えて、19世紀末から20世紀初頭にかけて農場労働者のストライキと死傷者を生んだ官憲の弾圧という近代労働運動史を彩る事件があり、そうした風土から生まれたファシズム勢力の有力な中核となり、さらに第二次大戦中には逆にレジスタンス運動の強力な拠点を占めるといった歴史をもつのがフェッラーラであって、目に見えぬそうした殺伐な過去の余韻がまだ漂っているのかもしれない。しかし、イタリア文化史形成という視点から見たとき、この都市を素通りすることができないのはあまりにも明らかである。

(図7)
コズメ・トゥーラ[春]油彩・板 1460 ロンドン ナショナル・ギャラリー
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(図8a)
コズメ・トゥーラ「オルガン扉絵」
テンペラ・板 1469
[受胎告知]

(図8b)
同[聖ゲオルギウスとドラゴン]
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(図9a)
パラッツォ・スキファノイアの[月暦図]
フレスコ 1470頃〜1490頃
[3月]全図
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(図9b)
同[3月]牡羊 部分
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(図9c)
同[3月]牡羊 部分
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(図9d)
同[3月]牡羊 部分
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(図9e)
同[3月]ぶどう樹の剪定 部分
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(図9f)
同[4月]全図
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(図9g)
同[4月]牡牛 部分
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(図9h)
同[4月]牡牛 部分
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(図10)
ドッソ・ドッシ[キリストの変容] 油彩 1516 フェッラーラ 国立絵画館
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(図11)
ドッソ・ドッシ[ディードー] 油彩 1518―20  ローマ ドーリア・パンフィーリ美術館
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