デューラーの《二皇帝像》と聖なる見世物

秋山聡 (あきやま あきら 東京大学助教授)


デューラーの《二皇帝像》への戸惑い


 ニュルンベルクのゲルマン国立博物館には、アルブレヒト・デューラーの手になる《二皇帝像》が残されています。この《カール大帝像》(図1)(註1)と《ジギスムント像》(図2)(註2)とからなる一対の板絵は、それぞれ縦215、横115cm(額を含む)というデューラーの作品としてはかなり規模の大きなものですが、研究者の間ではあまり芳しい評価を受けていません。この仕事に対してあまり気が乗らなかったデューラーが制作の大半を弟子に委ねたのではないかと推測したり、そもそもデューラーの真筆ではないのではないかと疑う向きもあるほどです。確かにデューラーの描く人物像にしては、この《二皇帝像》は、かなり不思議な印象を与えることは否めません。重々しい装束の中に人物が埋もれてしまっているように思われます。デューラーの手になる他の肖像画や、一連の有名な自画像(参考図)に比べてみても、人物像の実在感は薄く、首から下の人体の構造も明確に表現されていません。むしろ皇帝たち自身より、彼らを包む衣装や彼らの持つ宝器の方が、はるかに大きな存在感をもって観る者に迫ってきます。

(註1) カール大帝(742/43年-814年)、英仏語圏ではシャルルマーニュと呼ばれる。カロリング朝第二代フランク王で、西ローマ皇帝として800年にアーヘンで教皇レオ3世により戴冠。学芸の振興や教会改革に尽力し、その時代は「カロリング・ルネサンス」とも呼ばれる。
(註2) ジギスムント帝(1368年-1437年)。神聖ローマ皇帝カール4世の次男で、1387年にハンガリー王、1411年には神聖ローマ皇帝に登り、1419年からはボヘミア王も兼ねた。コンスタンツ公会議において教会大分裂の収拾を図るも、フスを処刑させたことにより膝元のボヘミアに動乱を招くことになった。ニュルンベルクにとっては、<帝国宝物>保管を委任してくれた恩人であった。

 しかしこれは、この作品の制作背景にニュルンベルクならではの特殊な事情があったからだと思われます。この一対の皇帝像が何のために制作されたのかについては、額縁の周囲に記された銘分が大きな手がかりを与えてくれます。《カール大帝像》には、「こはカルルス帝の似姿にして、帝はローマ国をドイツ人の統治下に置き給えり。その帝冠と衣装は高く尊崇せられ、ニュルンベルクにて毎年他の宝器と共に展示す」、《ジギスムント帝像》には、「こはジギスムンドゥス帝の像なり。帝はわが市に特別の恩恵を傾け、毎年展観さるる多くの宝器をもたらし給う。時に1424年のことなりき」とあるのです(註3)
 神聖ローマ帝国(註4)にはわが国の三種の神器にあたる、正当な皇帝が所持すべき宝物群が存在していましたが、このいわゆる<帝国宝物>を安全に保管するという重要な役割を当時ニュルンベルク市が担っていました。<帝国宝物>を保管することによって、ニュルンベルク市は帝国内でアーヘンやフランクフルトに並ぶ高い地位を手に入れていたのです。神聖ローマ帝国の理念上の源流はカール大帝にまで遡ると信じられていましたし、<帝国宝物>の中の祭服や宝器類の多くはカールゆかりの品と考えられていました。またジギスムントはフス戦争(註5)による混乱の中で<帝国宝物>の安全な保管を考慮し、1424年にこれをニュルンベルク市に移管させた皇帝でした。言ってみればこの二皇帝は、ニュルンベルク市にとって帝国内でのその社会的地位を確固とする上で最も重要な皇帝たちだったわけです。デューラーの《二皇帝像》の成立状況を考察する上で、<帝国宝物>を無視するわけにはいきません。
(註3) 前川誠郎氏訳による(『デューラー』(世界美術大全集9)、集英社、p.108)。
(註4) 962年のオットー1世の即位から1806年まで続いたドイツ王を皇帝に戴く地域を指す。理念上は西ローマ帝国がカール大帝のフランク王国を経て神聖ローマ帝国に継承されたものと見なされた。
(註5) 民族主義的な宗教改革を主導した神学者ヤン・フス(1370年頃-1415年)がコンスタンツ公会議中に処刑されたことに端を発する動乱(1419年-1436年)。

<帝国宝物>がニュルンベルクにもたらされるまで


 <帝国宝物>とは、わが国の「三種の神器」のように、神聖ローマ皇帝の正当性を証明するとみなされていた宝物の総称です。かなりの数からなり、時代によって多少の変化はあったようですが、主要な品々は<帝国権標>(註6)、<戴冠式装束>、<帝国聖遺物>に大別できます。<帝国権標>には<帝国王冠>、<帝国宝珠>、<帝国剣>、<祝典剣>、<帝国十字架>など、<戴冠式装束>には<鷲のダルマティカ>他数種の<ダルマティカ>(註7)、<アルバ>(註8)、<ストラ>(註9)、<マント>、<手袋>、<足袋>、<靴>、<帯>など、<帝国聖遺物>には<聖なる槍>(註10)、<聖十字架の欠片>(註11)、<洗礼者ヨハネの歯>(註12)、<聖アンナの腕の骨>(註13)などが含まれます。

(註6) 権標とは、王位や皇位の正当性を証明するとされる祭器の総称。具体的には王冠や宝珠、王笏などから成るのが一般的。
(註7) 古代ローマ以来のT字形の寛衣で、中世では聖職者が典礼における祭服として用いられた。両肩からクラヴスと呼ばれる元来位階を示す飾りが縫い付けられている。
(註8) ダルマティカと形状は似ているが、ひと回り大きく、袖口が広い点が異なる。通常ダルマティカやストラの上から羽織る。
(註9) 典礼において聖職者が首ないし肩から前に垂らして掛ける帯状の布。位階によって掛け方が異なっていた。
(註10) <聖なる槍>とは、十字架上のキリストの脇腹を突いたロンギヌスの槍を意味する。<聖なる槍>を標榜する事例は他にもあるが、ニュルンベルクに保管された槍は、古くはコンスタンティヌス大帝の槍とも、聖マウリツィウスの槍とも称されていた。この事例に限らず聖遺物は、人々の願望も与ってか、ともするとより価値の高い聖遺物へと変貌を遂げることがままあった。なおニュルンベルクの<聖なる槍>の穂先にはキリストの片手を打ちつけるのに用いたとされる<聖なる釘>が嵌め込まれていることになっていた。槍の穂先部分は8世紀のカロリング時代のもの。長さ50.7cm。
(註11) キリストが実際に架けられたとされる十字架は、伝説上ではコンスタンティヌス大帝の母后ヘレナが発見し、コンスタンティノポリスに持ち帰られたとされる。その後十字軍などにより、様々な断片が西欧にもたらされたことになっている。
(註12) 洗礼者ヨハネは、キリストのまた従兄弟にあたる先輩預言者として、聖遺物崇敬において殊の外好まれる聖人である。サロメによって斬首されたことが知られるためか、その頭部の数は多く、ローマにだけでも少なくとも3個存在した。コラン・ド・プランシーが1820/21年に数えたところでは、完全な頭蓋骨だけでも欧州全土で少なくとも13個は存在したという。この点、歯は一人当たりの本数が多いせいもあってか、同一聖人のものが各地に複数あってもさほど問題にならなかったせいか、各地に相当数あることになっている。
(註13) アンナは聖母マリアの母。そのためアンナの腕は、マリアはもとより孫のキリストをも抱いたであろうことから、大いに聖性を有すると信じられ、聖遺物としての価値が一際高いものとされた。この腕も古くはハインリヒ2世の妃で、聖人となった聖クニグンデの腕の骨とされていたものが、次第にアンナの腕に「昇格」したものである。


SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次

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(図1)
デューラー、《カール大帝像》、ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館
(図2)
デューラー、《ジギスムント帝像》、ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館
(参考図)
デューラー、《1500年の自画像》、ミュンヘン、アルテピナコテク 

 ここでとりあえず《カール大帝像》(図1参照)中の装束類を確認してみましょう。カール大帝が頭上に被っているのは、<帝国王冠>(図3)です。また身にまとっているのは<鷲のダルマティカ>(図4)、その上から<ストラ>を掛け、更には<マント>を羽織っています。<手袋>(図5)を着用した右手には<帝国剣>、左手には<帝国宝珠>(図6)を持っています。これらの品々は、図に見るようにウィーンの王宮内にある宝物館に現存しています。
 <帝国宝物>は、それらを所有することが正統な皇帝であることを証明していたため、必要に応じて公開されました。記録上最初に行なわれた公開行事は1315年バーゼルにおけるもので、二重選挙により皇帝が二人並立された際のことでした。<帝国宝物>を所有していたハプスブルク家のフリードリヒ美王が、その帝位の正当性を誇示するために公開したのです(註14)。しかしこの後フリードリヒは、対立皇帝バイエルンのルートヴィヒとの戦闘に敗れ、捕虜となり、その身柄と引き換えに<帝国宝物>を引き渡すことになります。晴れて<帝国宝物>を手に入れたルートヴィヒは、これを1324/25年にニュルンベルクとレーゲンスブルクにおいて公開しました。これらの公開行事は一度きりのものでしたが、ルクセンブルク家から帝位に登ったカール4世が、ルートヴィヒの死後、その遺族との粘り強い交渉の末に<帝国宝物>を手に入れると、これを定期的に公開するようになりました。
(註14) この儀式に参列した皇妃付き女官の書簡によると、呈示されたのは「聖槍、カールの王冠、二本の剣、聖釘、聖十字架の大きな一片、洗礼者ヨハネの歯」で、ケルン大司教が「帝国に属する我らの主の聖遺物を持つ者こそが、王でなければならず、王なのである。これらを持たない者を、何人も王と呼んではいけない」と述べたという。

 カール4世は幼時をパリの王室で、カペー家のシャルル4世、次いでヴァロア家のフィリップ6世の下で過ごし、後に教皇クレメンス6世となるピエール・ロジェの薫陶を受けて育ちました。フランス王室にはルイ聖王(9世)が、1239年以降相次いでラテン帝国皇帝ボードワン2世から入手した<茨の冠>をはじめとするキリスト受難の聖遺物が、フランス王の権標として受け継がれ、国王の手により定期的に公開されていました(註15)。そのためもあってか、カール4世は王権を強化する手段としての聖遺物に強い関心を示し、<帝国宝物>を入手した1350年以降、プラハにおいて定期的な公開を行なうようになったのです。やがてこの展観行事は教皇からの勅許を得て、「聖槍と聖釘の式典」という正式の宗教行事となり、参観者には贖宥が与えられるようになりました(註16)
(註15) ルイ9世(1214年-1270年)は、1226年に即位したカペー朝のフランス王。内政を充実させたほかに、二度十字軍を率いて遠征した。敬虔なことでも知られ、ラテン帝国のボードワン2世から1239年以降に<茨の冠>をはじめとする数々のキリスト受難関連聖遺物を買い取り、その保管のためにサント・シャペル教会を建立した。
(註16) 教皇クレメンス6世は公開行事の参加者に7年と280日の贖宥を認め、次いで教皇インノケンティウス6世は公開行事を「聖槍と聖釘の祝祭」という宗教行事として催すことを許可した。

 カール4世は<帝国宝物>をはじめとする聖遺物コレクションの安全な保管のために、プラハ郊外にカールシュタイン城を造営しました。定期的な公開行事のたびごとに<帝国宝物>は厳重な警護の下にプラハまで搬送されたのです。その後1415年のヤン・フスの処刑に端を発するボヘミア地方の騒乱を避けるために、カール4世の次男ジギスムント帝は、1421年に<帝国宝物>をカールシュタイン城からハンガリー国内に移しましたが、さらに安全な保管を考慮して、1423年にこれら<帝国宝物>の保管をニュルンベルク市に委ねる決断を下したのです。
 ニュルンベルクへの移送は安全のため隠密裡に運ばれました。<帝国宝物>は魚を満載した馬車の中に隠して搬送されたのですが、その御者すら自らが運んでいるものの正体を知らされず、1424年3月22日の午前9時ごろ市の城門に到着した際に、市のお歴々一同が喜び迎える様子を見て、初めて事実を知り、慌てて飛び降りて跪いて祈ったと伝えられています。
 1424年5月5日にバンベルク司教の許可を得て、初めての展観行事を行なった後に、ニュルンベルク市はローマ教皇庁と交渉を重ね、年一回復活祭後の第二金曜日に<帝国宝物>の展観行事の催行と、行事参観者への7年と280日の贖宥の付与を許可されました。ニュルンベルクにおける公開行事は市参事会の主導で行なわれ、それまでのように皇帝が臨席することは稀となりました。また<帝国宝物>が聖職者の手に亘ることを警戒したジギスムント帝の意向に従い、ニュルンベルク市の管轄下にあった聖霊救護院内の聖霊教会が保管場所に選ばれました(註17)。ニュルンベルクにおいて<帝国宝物>の展観行事は、従来の「皇位の正当性の誇示」とは異なり、<帝国宝物>の保管という名誉ある務めを果たす自治体の「アイデンティティの確認」という色彩を強く帯びることになったのです。ちなみにこの行事は1524年にニュルンベルクが宗教改革を導入するまでのおよそ100年間続くことになります。また皇帝の戴冠式が行なわれる際には、ニュルンベルク市使節団が<帝国宝物>をアーヘンまで搬送しました。この大役への褒賞として使節団は、戴冠式では特等の場所を与えられていましたが、1520年のカール5世の戴冠式では、個人として参加したデューラーも、使節団の計らいでこの恩恵に浴したようです。
(註17) 貧窮者の救護施設として建てられ、1341年以降、市の管轄下に置かれた。現在も老人ホームとしての機能を残しているが、建物の一部はフランケン料理のレストランとして用いられている。

(図3)
<帝国王冠>、ウィーン、王宮宝物館
(図4)
<帝国宝物>中の<鷲のダルマティカ>、ウィーン、王宮宝物館
(図5)
<帝国宝物>中の<典礼用手袋>、ウィーン、王宮宝物館
(図6)
<帝国宝物>中の<帝国宝珠>、ウィーン、王宮宝物館

ニュルンベルクの聖なる見世物:<帝国宝物>の展観行事


 ニュルンベルクにおける<帝国宝物>の展観行事は、プラハにおける先例に倣ったものでした。プラハでの展観は四部構成で、ボヘミア王国ゆかりの聖遺物と<帝国宝物>が一緒に呈示されましたが、ニュルンベルクでは呈示の対象は市に保管が委託された<帝国宝物>に限られたため、展観行事は三部構成となり、第一部では「キリストの幼少時およびゆかりの人々の聖遺物」が、第二部では「カールゆかりの品々と戴冠式装束」が、最後の第三部では「キリスト受難関連の聖遺物」が呈示されました。このニュルンベルクにおける展観行事については、相当数の史料が残されており、かなり詳細に復元することが出来ます。
 まずは、この公開行事の様子を生き生きと伝える興味深い木版画を見てみましょう(図7)。これは仮設の木製櫓で、ニュルンベルクの中心的広場であるマルクト広場のショッパー邸の前、聖母教会の向い側に、設営されました(地図参照)。櫓はおよそ7メートル程の高さで、屋根にはテントが張られ、<帝国宝物>中のとりわけ重要な聖遺物をあしらった旗が左右に掲げられました。また公開行事はミサを伴なう宗教儀式でもあったので、屋根には小さいながらも鐘が設置されていました。櫓の三階部分から聖職者たちによって宝物が呈示されましたが、手前の手すりには金糸の縫い取りのある豪奢なタペストリーが掛けられ、行事に荘厳さを与えていました。またタペストリーの手前には何本もの蝋燭が灯されましたが、これらの蝋燭は鍍金された高価なものでした。櫓には地上からの階段はなく、背後のショッパー邸の窓から板を渡して出入りしたようです。これは防犯対策でもあったようで、二階部分には武装兵士が厳重に警戒していました。また膨大な群集が訪れることから、混乱を防いで人々の動線を規定するために、市内の道路も所々封鎖されました(地図参照)。
 展観行事の冒頭ではまずミサが挙げられ、その後<帝国宝物>の品々が順次呈示されてゆきました。個々の聖遺物を手ずから呈示するのは高位聖職者の役目で、更に個々の聖職者の脇には市の高官が蝋燭を持って介添え役を果たしました。この木版画に表現されているのは、展観行事の第一部で、司教帽をかぶった聖職者たちによって、左から順に「キリストが寝かされたという飼葉桶の破片」を入れた箱(図7-1)(註18)、「聖アンナの腕の骨」を入れた容器(図7-2)、「洗礼者聖ヨハネの歯」を入れた顕示器(図7-3)、「福音書記者ヨハネの衣の切れ端」を入れた容器(図7-4)、「聖ペテロ、パウロ、ヨハネがそれぞれ繋がれていた鎖」(図7-5)(註19)が呈示されています。左から二人目に、差し棒を持ちながらメモを読み上げている人物がいますが、これは「ハイルトゥムシュライアー」と呼ばれる説明係(図8)で、市内の聖職者の中からよく声の通る人物が選ばれたそうです。この説明係が読み上げているメモは「シュライツェッテル」(図9)と呼ばれ、幾つか現存しており、具体的にどのような説明が加えられていたかを知ることができます。
 第二部では、<カールゆかりとされる帝国王冠>(註20)、<茶、黒、白色のダルマティカと呼ばれる聖別された衣装、マント、ストラ、帯、笏、宝珠とその他カールに帰属する多くの事物20点内外>(図10)、<天使がカールに与えたとされる剣(=祝典剣)>、<聖マウリツィウスの剣(=帝国剣)>が順に呈示されました。最後の第三部では<最後の晩餐で用いられたテーブルクロスの切れ端>(註21)、<キリストが弟子の足を洗った折に用いたとされるタオルの切れ端>(註22)、<五つの聖遺物顕示器に収められたキリストの茨冠の棘5本>に次いで、最も重要な宝物として<聖なる十字架の大きな一片>と<聖なる槍>が示されました。<十字架の一片>(図11)については、「これに彼(=キリスト)の片手が釘打たれたのであり、彼の血が注がれたのである」という説明が加えられ、「この上に釘の穴があること」が何よりも確かな証明であることが強調されました。また<聖なる槍>(図12)については、「これこそが我らの主イエス・キリストのわき腹を開き、その甘美なる心臓を傷つけた」のであり、「非常に深く傷つけたために、汝らも見ることができるだろうが、尖端から黄金のカヴァーのところまでにその痕跡がある」との講釈が付加されていました。さらにはこの「聖なる槍の穂先には、釘が仕込まれているが、この釘によって我らの主イエス・キリストは、十字架に打ち付けられたのである」として、人々の注意を、槍の穂先の間に嵌めこまれた釘にも向くように、喚起しています。
(註18) 生まれたばかりのキリストの身体が接したであろうことから飼葉桶は重要な聖遺物と見なされた。ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレにも破片が残されていることになっている。
(註19) 聖人が繋がれた鎖も、その聖人との接触によって聖遺物とみなされた。聖ペテロの鎖は、ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリのものが、聖パウロの鎖は、ローマ、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラのものが有名。
(註20) 実際にはこの王冠は、967年にオットー2世が制作させたものと考えられている。
(註21) 最後の晩餐の折に用いられたテーブルクロスは、キリストをはじめとして多くの聖人が触れたであろうことから、聖性を大いに有する重要な聖遺物とみなされた。
(註22) キリストが弟子たちの足を洗うのに用いた布も、キリストの手と弟子達の足が触れたということで、聖性の高い聖遺物とみなされた。アーヘン近郊のコルネリミュンスターにも同様の布が残されているが、こちらにはユダの足跡が黒々と付いているとされた。

 こうして、一連の<帝国宝物>が人々に示された後に、<帝国十字架>(図13)(註23)が呈示されるとともに、聖遺物の呈示に際して与えられる贖宥についての教皇の勅書や書簡が読み上げられました(註24)。さらにもう一度<聖なる槍と釘>の意義が強調され、更にジギスムント帝を初めとする聖俗の貴顕への祝福が唱えられて、一連の儀式は終了しました。
(註23) 1024/25年ごろに作られたこの十字架は、その中に聖なる槍や聖十字架の欠片を収納することができる容器の役割をも果たしていた。これら収納される聖遺物が不断に放つ聖性を浴びることにより、この十字架も聖性を帯びるとみなされた。
(註24) ニュルンベルクにおける贖宥の算出法は独特で、新たに就任した教皇が贖宥の日数を確認する度に、これを新たに加算していったらしい。結果として当時にあっては破格の贖宥が得られる催しと理解され、多くの巡礼を引き付けた。

 この行事に参加した人々は、日ごろから耳にし、目にしているキリストや聖人たちの物語を、聖遺物が呈示されることにより、あたかも「いま、ここ」で起きたかのような臨場感を持って受け止めたものと思われます。説明係の説明は、人々に「聖なる物語」と「自分達の時代」との懸隔を超えたような感覚をもたらし、耳で聞いた物語や目で見た物語画の内容が、一層の臨場感をもって迫り、重層的な「迫真性」を生み出し、信仰心を高揚させたことでしょう。

(図7)
木版画<ニュルンベルクの帝国宝物展観>、『ニュルンベルクの聖遺物書』より 
(図7−1)
<飼葉桶の破片>の呈示(図7の部分)
(図7−2)
<聖アンナの腕の骨>の呈示(図7の部分) 
(図7−3)
<洗礼者ヨハネの歯>の呈示(図7の部分) 
(図7−4)
<福音書記者ヨハネの衣の切れ端>の呈示(図7の部分) 
(図7−5)
<聖ペテロ、パウロ、ヨハネが繋がれた鎖の輪>の呈示(図7の部分) 
(図8)
ハイルトゥムシュライアー(聖遺物説明係)(図7の部分) 
(図9)
「シュライツェッテル」(聖遺物説明係の読み上げ用メモ)、ニュルンベルク市立公文書館 
(図10)
<戴冠式装束一式>、『ニュルンベルクの聖遺物書』より
(図11)
<帝国宝物>中の<聖十字架の欠片>、ウィーン、王宮宝物館 
(図12)
<帝国宝物>中の<聖なる槍>、ウィーン、王宮宝物館 
(図13)
<帝国宝物>中の<帝国十字架>、ウィーン、王宮宝物館 

ショッパー邸の「宝物室」


 ところで、日ごろ聖霊救護院内の聖霊教会(地図参照)に厳重に保管されていた<帝国宝物>は、公開行事の前夜に、厳粛な隊列を作ってショッパー邸まで搬送されました。そしてショッパー邸内の「宝物室」と称される部屋に安置されたのです。この部屋にはしかるべき身分の市民や高官、高位聖職者のみが出入りできたと言います。デューラーの《二皇帝像》は、この部屋の壁に掛けられるために市当局から註文されたものでした。ということはこの絵に描かれた様々な装束や宝器は、少なくとも年一回実物と見比べられる定めにあったということになります。デューラーにしてみれば、己の迫真的な再現能力を人々に印象付ける好機と映ったにちがいありません。ですからこの仕事を「あまり乗気ではなく、作成の多くを弟子たちに委ねた」という見方は、当てはまらないように思います。実際、この絵の制作にあたってデューラーは宝物の一部を特別に実見する機会を与えられたらしく、幾つかの下絵素描が残されています(図14、15)。これらの下絵の存在からみても、むしろ個々の品々の緻密な表現に腐心した結果、人物像との調和という点が後退してしまった、と考えた方が良さそうです。この部屋を訪れたお歴々は、宝物とそのデューラーによる再現を比較することにより、宝物の意義を確認し、それを所有する栄誉を他ならぬニュルンベルクが委ねられていることを誇りに思ったことでしょう。それと共に、かくも優れた迫真的再現をこなす優れた画家がニュルンベルク市民の中に居ることを、改めて認識する場ともなったのかもしれません。

(図14)
デューラー、素描《カール大帝の衣装下絵》、ウィーン、アルベルティーナ版画素描館 
(図15)
デューラー、素描《帝国王冠の下絵》、ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館 

<帝国宝物>保管容器の底の絵


 ところで、通常これら<帝国宝物>の主だった品々は、オーク材に銀の薄板を被せた特別な保管容器(一般にシュラインと呼ばれる破風付き箱型容器)(図16)(註25)に収められ、聖霊教会の天井から頑丈な鎖によって吊り下げられていました。みだりに略奪されたりしないための厳重な保護措置だったのです。面白いのは、この容器の底部(図17)に<帝国宝物>の中でも最も重視されていた<聖なる槍>と<聖なる十字架の断片>が描かれていたことです。ここでは二人の天使たちが、これらの聖遺物を呈示しています。教会を通常時に訪れた人々は、もとより<帝国宝物>を直に見ることは不可能でしたが、天井から吊るされた容器を見上げることは出来ました。容器の底部に描かれた、天使たちによる仮想の<帝国宝物>展観を見ることによって、一層公開行事への興味関心を掻き立てられたことでしょう。
(註25) このシュラインは1438/40年にニュルンベルクの金細工師ハンス・シュスリッツァーとペーター・ラツコにより制作された。高さ99.5cm、横幅174.5cm、奥行 50.5cm。

《二皇帝像》の役割


 デューラーの《二皇帝像》は、このシュライン底部の絵と同じ機能をも有していたものと思われます。ショッパー邸の「聖遺物室」を、通常時に訪れた人々は、<帝国宝物>を身にまとった《二皇帝像》を見ることによって、この部屋の意義を知るとともに、そこに描きこまれた品々が他ならぬニュルンベルクに保管されており、年一度特別に公開されることを確認し、「本物」を見たいという欲求が喚起され、公開行事への関心を高めたことでしょう。元来、絵画や彫刻は実物の「不在」を補う役割を果たしていました。そして通常その「不在」は永遠に続くものでした。しかしデューラーの《二皇帝像》の場合、皇帝の容貌は別として、彼らが身に帯びている宝物類の「不在」は永遠のものではなく、人々には周期的にこれらを実見する可能性が残されていました。通常隠蔽されつつも、年一度顕示される<帝国宝物>の画像を目にすることによって、人々は<帝国宝物>へ思いを馳せたことでしょう。絵画による複製を見ることによって、年一回の実物の公開行事への期待が一層高まっていったものと思われます。この《二皇帝像》において、装束や宝器の圧倒的な存在感の前に人物像が後退してしまっているとしても、それはこの作品の本来の機能に相応してのことと思われます。この《二皇帝像》は、皇帝顕彰のための肖像というよりも、ニュルンベルクがその保管を誇りとする<帝国宝物>の「肖像」だったと言っても過言ではないでしょう。デューラーにとってこの注文は、気の進まぬルーティン・ジョブであったとは考えられず、本来の用途を十分に把握した上での本格的な仕事であり、彼にとってその技量の誇示のためにも格好の場であったのです。その意味ではこの《二皇帝像》は単なる<帝国宝物>の宣伝媒体に留まらず、本物の<帝国宝物>とのパラゴーネ(=芸術間の比較競争のこと)すら意図されていたかもしれません。デューラーにとってこの《二皇帝像》は、自らの卓越した技量を時のセレブたちに効果的にデモンストレーションすることの出来る格好の場だったとも言えるでしょう。
 ちなみに、ニュルンベルクで展観に供された<帝国宝物>の大半は、今でもウィーンの王宮内の宝物館に展示されています(註26)。科学的な調査に基づく年代比定がなされており、いずれも今日的な意味においては真正な聖遺物ではないことは明らかですが、これまで見てきたように、これらがドイツ語圏の歴史の中で重要な役割を担ってきたことは事実です。この宝物館にはデューラーの《二皇帝像》のレプリカも展示されていますので、ニュルンベルク市の高官よろしく、<帝国宝物>の実物とデューラーによるその表現を見比べてみるのも一興かもしれません。
(註26) <帝国宝物>は、ナポレオンの侵攻に際してレーゲンスブルクを経てウィーンに移された。その後ヒトラーがニュルンベルクに戻した期間を除いて、今日に至る までウィーンで保管されてきた。現在<帝国宝物>が展示されている宝物館(Schatzkammer)は王宮内にあり、ウィーン美術史美術館の一部門となっている。通常10時から18時開館で、火曜日は休館。概要については、ウィーン美術史美 術館のHPからアクセスできる(英独二ヶ国語)。

 
(図16)
<帝国宝物>保管のためのシュライン、ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館 
(図17)
<帝国宝物>用シュライン底部 

主要参照文献
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  • 秋山聰、「如何にしていとも気高き帝国の聖遺物が呈示されたのかニュルンベルクにおける帝国宝物の展観」、『西洋美術研究』、10(2004)、pp.9-35.
  • 参照地図)は「展観行事時のニュルンベルク市の交通規制」(Schnelbögl1962に加工したもの)『西洋美術研究』第10号より転載



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