イタリア12都市物語-10 パルマ ─フランス文化の投影─ おがわひろし

〔1〕スタンダールとパルマ

 パルマParmaという地名と初めて出会ったのは、たしか若いときに読んだスタンダールの小説『パルムの僧院』だったと思う。これは1946年に名優ジェラ―ル・フィリップ主演で映画化され、戦後間もない東京の映画館で、白黒の映像で展開する陰影のドラマを私は心を奪われながら見つめていたのを覚えている。パルマはあまりにも遠い存在でしかなかった。
 それからほぼ二十年が経ち、初めてパルマに旅するときもスタンダールのことは念頭にあった。パルマにはまさに「ホテル・スタンダール」というのがあり、そこに泊まってみたいなとちょっとは思ったがそれはやめた。四つ星の高級ホテルだったこともあるが、スタンダールとパルマにはそれほど直接の関係があるわけではないことをすでに知っていたし、パルマについてはもっと重要な関心がたくさんあったからである。スタンダールは十七歳のときにナポレオン軍の士官としてアルプスを越えてミラーノに入って以来イタリアに憧れ、晩年思いがかなって1830年、七月革命による王制政府のもとでチヴィタヴェッキア駐在の領事となった。42年に五十九歳で急逝するまでの間、イタリアを題材とした多くの作品を書いたが、『パルムの僧院』(1839)はローマで見つけたファルネーゼ家に関する古記録に想を得て、16世紀のパルマでの出来事を19世紀のナポレオンの時代に移して作り上げたフィクションである。16世紀から18世紀半ばまでパルマの統治者だったファルネーゼ家については後に詳述することになるが、いずれにしてもスタンダールはパルマに長期滞在したこともなく、この地に特別の思い入れがあったわけでもなさそうである。なお重要な舞台となった「僧院」が実在するのであればどこかが気になる。一説にはパルマから北へ国道343号線を6キロほどの地点にある元シトー会のパラディーニャ修道院(Certosa di Paradigna)というのがそれではないかとされるが定かではない。しかしシトー会というのはもともとフランスに本拠を置き、しかもスタンダールの出生地グルノーブルに勢力を張っていたので、彼はこの僧院となんらかの個人的な関係があったのかもしれない。
 ただ一つ、あらかじめ注意を促しておきたいのは、パルマは中世以来20世紀の初頭に至るまで、イタリアの中で政治的にも文化的にも最もフランスの影響を受けた都市であるということだ。その経緯は以下に明らかにしたい。

 まず古代から近代に至る二千年の間に、パルマの統治者は、他の都市に比べてかなりめまぐるしく変わるので、初めにそれを編年的に整理しておくのがわかりやすいだろう。

  1. 新石器時代中期の土器片、青銅器時代中期の住居址が周辺で発見されている。
  2. 鉄器時代末期(前4世紀頃)、エトルリア人が住みついた形跡があり、ついでケ ルト人が進出する。
  3. 前2世紀、ローマ人がケルトを追放し、植民市を設ける。parmaとはラテン語で「丸い盾」を意味し、最初の都市の形態からの連想で命名されたと思われる。リーミニからピアチェンツァまでのアエミリア街道は前187年にすでに建設されており、パルマはポー河流域地帯の交通の要所となる。ローマ時代の都市計画が現代に至るこの都市の基本構造を形成している。たとえば市の中心を南北に走るcardoと呼ばれる主軸は現在のファリーニ通り、カヴール通りとなり、東西に走るアエミリア街道はレプッブリカ通り、マッツィーニ通りとして主要道路の役を果たし、その交差点にあったフォールムの一部はガリバルディ広場として機能している。ただしローマ時代の遺構は地上には全く残っていない。
  4. 5世紀末より6世紀中頃まで東ゴート、ビザンティンが相い入り乱れて侵入。史料的にはほとんど空白の時代。
  5. 次いで773年頃までランゴバルド人が占領。
  6. 次いでフランク人が侵入。カール大帝により司教伯(vescovo-conte)が置かれる。
  7. 1149年に複数の行政官(consoli)が選ばれ、以後自治都市(コムーネ)の体制を整える。その後ご多分にもれずここでも皇帝派と教皇派の勢力争いが繰り広げられる。
  8. 市民の間に際立った有力者が現れない状況に乗じて、ミラーノのヴィスコンティ家(1346-1449)とその後を継いだスフォルツァ家(1449-1499)がパルマに君臨する。その間一時的にフェッラーラ侯ニコロ・エステ3世が介入したこともある(1409-1420)。
  9. 1499年、ミラーノ公国はフランスに占領され、必然的にパルマはその支配下に入るが、スペインと同盟を結んだ教皇と激しく対立する。
  10. 1545年、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世はカール5世と和解し、息子のピエール・ルイージをパルマ公として送り込み、ここにファルネーゼ一族を君主とするパルマ公国が誕生する。
  11. 1730年、ファルネーゼ家の男子の世継ぎが絶え、エリザベッタ・ファルネーゼとブルボン家のフェリペ5世(スペイン王)の子、カルロス1世が公国を継ぐことになる。この頃からブルボン家の出自であるフランスの影響を強く受けるようになる。
  12. 19世紀初め、ブルボン家とオーストリアのハプスブルグ家とが婚姻関係によって接近を強めるが、ウィーン会議(1815)により、パルマ公国の主権はオーストリア皇帝フランツ1世の娘でナポレオン1世の妻となったマリー・ルイーズに委託される。
  13. 1860年、サヴォイ王国に併合される。
SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. イタリア12都市物語 <1>
    ペルージャ――エトルリアからペルジーノまで no.55(1997年6月発行)
  2. 同  上 <2>
    モーデナ――ロマネスク街道の要衝 no.56(1997年12月発行)
  3. 同  上 <3>
    ピーサ――中世海港都市の栄光 no.57(1998年6月発行)
  4. 同  上 <4>
    パードヴァ――中世における知の形成 no.58(1999年4月発行)
  5. 同  上 <5>
    シエーナ――中世理想都市の運命 no.60(2001年3月発行)
  6. 同  上 <6>
    ヴェローナ――北方との邂逅 no.61(2002年4月発行)
  7. 同  上 <7>
    ウルビーノ――新しきアテネ no.62(2003年4月発行)
  8. 同  上 <8>
    マントヴァ――ある宮廷の盛衰 no.63(2004年8月発行)
  9. 同  上 <9>
    フェッラーラ――小さなルネサンス no.64(2005年7月発行)

〔2〕ロマネスクの広場

 さて、パルマの物語を私はドゥオーモ広場(Piazza del Duomo)から始めたい。この広場は長辺が七、八十メートルほどのあまり大きくない四辺形だが、東をドゥオーモ、南を洗礼堂、西を司教館に囲まれた完全な宗教的空間であり、ガイドブックの表紙などにも必ずここの部分の写真が代表的に使われていて、パルマの精神的な核をなす場所といってもいいだろう。
 パルマのドゥオーモ(図1)は11世紀後半に建設され、1106年に被昇天の聖母に献堂された。その後地震による被害などもあって、ほぼ現在の姿に完成したのは1170年頃である。この時代、北イタリアを風靡していたロマネスク様式の教会建築として、モーデナの大聖堂と並ぶ代表的な作例とみなされる。ビザンティンに替る最新の様式の大聖堂が、アエミリア街道上に位置するモーデナとパルマという二つの都市にいちはやく建設されたことは、この街道が巡礼路として果たしていた役割の重要性を思えば理解されるだろう。ファサードを見ると、屋根は左右に傾斜する三角形をなし、表面は薄茶色の砂岩で覆われ、真中から上に三段の柱廊が設けられ、下の部分には三つの扉口がある。余分な突起や付加物をもたない整然としたレイアウトが美しい。中央の扉口の玄関部分には、背中に柱を支える二頭のライオンの彫刻が配置されているが、これは少しおくれて1281年にジャンボーノ・ダ・ビッソーニという彫刻家が作ったという記録がある。こういう建築要素をスティローフォロというが、これは11世紀の彫刻家ヴィリジェルモがモーデナのドゥオーモで設置したのが始まりと思われ、これについてはモーデナの章で詳しく考察したのでここでは繰り返さないことにする。なお、正面右側に立つ鐘塔は13世紀の末にできたもので、垂直方向を強調したゴシック的要素が勝り、やや違和感がある。
 ドゥオーモの内部については見るべき重要なものが二つあり、まさにパルマの美術史の二人の主役がここに登場することになる。その一つは右の翼廊の壁に取り付けられた一枚の浮彫<キリストの十字架降下>(1178)(図2)である。作者はベネデット・アンテーラミBenedetto Antelami(12世紀末頃―13世紀初頭)とされる。これはもともと内陣仕切り壁(ポンティーレpontile)を構成する一部であったが、16世紀に内陣が現在見られるように一段と高く改装された際に仕切り壁が壊され、この一枚の石板だけが残されたものである。素材はヴェローナ産の赤味がかった角礫岩で、幅2.3メートル、高さ1.2メートルという大きな板面の中央にキリストがアリマタヤのヨセフに抱きかかえられるようにして十字架から下ろされる姿が彫られ、その右にはニコデモが梯子をかけてキリストの釘を抜こうとしている。左側部分には三人のマリア、聖ヨハネ、聖母が並び、先頭には「勝利の教会」の象徴的人物が聖杯と旗を手にして立つ。右側にはキリストの衣をサイコロで賭ける三人のローマの兵士たちが前面に表され、うしろには五人のユダヤの男性の群衆と盾をもった百人隊長、そしてユダヤ教の敗北を象徴する人物像が並ぶ。そして人物たちの上に二体の天使が水平に泳ぐようにして浮かぶ。すなわち左にはガブリエルが釘を抜かれたキリストの右手を取ろうとする聖母を助けようとして手を添え、一方右のラファエルはユダヤ教の寓意像の頭を押さえ付けている。空間の奥行きを欠き横一線に並ぶ二次元的構図のシンメトリックな単調さを救うために、主役である中央のキリストの体を大きく斜めに傾け、また、右端にしゃがみ込む兵士たちの姿勢に動きを与えて一定のリズムを生み出している。
 アンテーラミはルガーノに近いヴァル・ディンテルヴィVal d'Intelviの生まれと考えられるが出自に関する詳しいことはわからない。おそらくプロヴァンスで彫刻の修業をしたものと思われ、専門的にはアルル地方のロマネスク美術の影響が指摘されているし、後にはイル・ド・フランスの建築を学んだとも推測される。さらにはいわば地元のヴィリジェルモの古典的造形感覚も受け継いでいるといってよい。<キリストの十字架降下>に関していえば、ローマ時代の石棺の浮彫にヒントを得た可能性もある。いずれにせよ、ヴィリジェルモと並んで北イタリアのロマネスクを代表する彫刻家と定義づけることができる。前出の『モーデナ』の章で私はヴィリジェルモを「イタリア最初の彫刻家」と呼んだのだが、アンテーラミは「第二の彫刻家」といえるかもしれない。
 パルマのドゥオーモで見るべきもう一つのものは、中央祭壇の上部のクーポラ(ドーム)のフレスコ画である。これはずっと時代が下がって16世紀の初めにパルマ近郊コッレッジョ生まれの画家アントーニオ・アッレーグリ(通称イル・コッレッジョil Correggio 1489頃―1534)によって描かれたものである。(イル・)コッレッジョは宗教画のほか、ギリシア神話を主題とした油彩画などがロンドン、パリ、ローマなどにあって、ことのほか愛好者の多いルネサンス後期の画家であるが、その主たる活動の舞台は生涯を通じてパルマであった。このクーポラの天井画の主題は<聖母被昇天>。天蓋の外縁部に待機する聖母が天頂に出現したキリストを見上げる情景が表されている。念のためにいえば、「被昇天」(〈英〉Assumption〈伊〉Assunzione)とは聖母が死後、キリストの出迎えを受けて昇天することを意味する用語で、カトリックでは8月15日がその記念祭日と決められている。実はコッレッジョはこの後パルマの別の教会でも天井画を制作しているし、それより後にも他の画家によって天井画がいくつか描かれており、天井画というジャンルを別に項目を設けて論じたいと思うので、この作品の詳細については通過しておく。

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パルマ・ドゥオーモ正面

(図1)
パルマ・ドゥオーモ正面

ベネデット・アンテーラミ

(図2)
ベネデット・アンテーラミ<キリストの十字架降下> 角礫岩 ドゥオーモ内壁 1178

〔3〕ゴシック彫刻の先駆者:アンテーラミ

 ドゥオーモの右隣、すなわち広場の南側に立つのはアンテーラミが設計した洗礼堂(1196着工、1216完成)(図3)である。ドゥオーモの彫刻で評判を得た彼は続いて建築の全体計画を依頼されたのである。プランは八角形、厳密には各辺が等しい正八角形ではないが、外観はまさしく八角柱に見える。高さ約35メートル、幅は22メートルである。屋根は尖頭アーチのクーポラになっているが、外壁が上まで伸びているので地上からはかくれて見えない。ヴェローナの桃色の礫岩に表面を覆われた外面は、高い基台部分の三方に扉口があり、その上に四層の柱廊(loggia)が設けられ、最上部は盲アーチの並列によって冠を被せた形になっている。後の時代に頂上の八つの角に小塔(edicola)が取り付けられた。このように外面は深い扉口と柱廊のおかげで空間的な奥行きをもち、柱廊の整然とした細い柱の連続によって垂直線が強調されている。平面的で閉鎖的なロマネスク聖堂のエレヴェイションとは異質なこの建築的造形性は、明らかにゴシック的といえるものである。建築様式の専門的な話は人を退屈させるだろうから深入りしないこととして、重要なことは、ヴィリジェルモがロマネスク様式を完成させたのに対して、アンテーラミはそこから出発して、シャルトルなどで学んだと思われるゴシック様式を北イタリアに導入した第一人者だったということである。
 しかし一言つけ加えると、ドイツやイギリスと違って、イタリアにおけるゴシックは強靭なロマネスクの伝統に接ぎ木される形となって現れ、ミラーノのドゥオーモを例外として、ついに正統的なゴシックは実現しなかった。ゴシック建築の起源となるパリ郊外のサン・ドニ修道院のシュジェール院長が書き残したように、物質的・地上的世界の壮麗さによって、人間が神に到達し得るという神学的理念が稀薄となり、単に構造の技術・デザインとして導入されたに過ぎなかったからなのかもしれない。三つの扉口にはゴシック特有の数本の側柱が立てられているが、フランスにおけるような人像柱は取り入れられなかった。しかし、上部のルネッタ(半円形の壁面)には浮彫があって、これはアンテーラミの仕事である。このうち西側の浮彫<最後の審判>(図4)はフランスの大聖堂でよくみかける主題であり、ここでも確かに中央に両手を広げて座る威厳にみちたキリストが表されているので、イタリアにおけるこの主題の最初の彫刻的表現とされるのだが、左右に現れるべき裁かれる人々を欠いているため、図像学的には<パントクラトール(全能のキリスト)>とすべきとする説もある。
 洗礼堂の内部は、八角形の二倍の十六の壁面で取り囲まれるかたちとなり、そのまま石材のリブが上に伸びて穹窿の天井を支える。十六の壁面および天井の区画はすべてフレスコ画で装飾されているが、それよりも、目を引くのは壁に沿って並べられた十四個の石彫、正確には高肉彫であり、これはすべてアンテーラミの代表作というべき作品である。そのうち十二個は<月暦像>(図5)、二体は<冬>と<春>の寓意像である。それぞれ長方形の単独の「石碑」のような体裁だが、本来はドゥオーモのファサードに組み込まれるために制作されたもので、それがなんらかの事情で残され、洗礼堂に陳列されたのではないかと推測されている。
 <月暦>の図像については、すでにいくつかの浮彫と壁画の作例に言及したことがあるが、この主題は基本的にはそれぞれの季節に応じた農事によって一年のサイクルを表すものである。イタリアでもフランスでも、麦とぶどうの栽培に関する作業が中心となる。著名な中世史家ジャック・ル=ゴフによれば、中世ヨーロッパの人口の八割が農民であり(J.ル=ゴフ『中世とは何か』池田健二・菅沼潤訳、 藤原書店)、都市の繁栄はそうした農民の労働によって支えられていたことが忘れられてはならない。そして得られた豊穣の作物は即ち神の恵みにほかならず、その感謝の心を込めて<月暦>の美術が教会に取り付けられたり、少し後には有名な<ベリー公のいとも豪華な時祷書>に代表されるように、貴族の座右の書を飾るまでに至るのである。 パルマ洗礼堂の内部は平常薄暗くて、あまりよく見えないのが残念だが、アンテーラミの場合を簡単に説明すると、早春の<2月>では鋤で畑を耕す農夫の姿が表され、<6月>や<7月>では麦の収穫や脱穀が行われている。<8月>ではぶどうの収穫を控えて、ワインを仕込むための樽を作っているし、<9月>はまさにぶどうの収穫のときである。<10月>は麦の種蒔きの時であるが、ここに現れるのがあごひげを生やしてトーガ風の長衣を着た老人であるのがおもしろく、これは種蒔きという行為に生命の誕生を司るある種の聖性を暗示させたかのようである。ただし<1月>は例外的にローマの神「ヤヌス」がマントを着て床几に座った丸彫となっている。ヤヌスは老人と青年の二つの顔をもち、物事の終りと始まりの境界を司るとされ、したがってこれが一年の最初の月の寓意像となった。
 同列に並べられた<春>と<冬>については、<夏>と<秋>を欠いているので、<四季>のシリーズの未完作かあるいは紛失したのかと思い勝ちだが、もともと<冬><春>という順序で構想され、つまり「再生」の観念を表そうとしたと考えられる。<冬>は、長いあごひげを伸ばした逞しい男性が左肩にマントのようなものを掛けただけの半裸の立像として表されている。両手で拡げた巻物を持っており、肩のうしろには若木が添えられている。半裸の姿は寒い冬のイメージとはかけ離れており、アンテーラミのこの型破りの着想にはさまざまな論議がやかましいところであるが、むしろ過酷な冬に打ち勝って再生する力をこの姿に託したのではなかろうか。一方<春>は、ロングドレスを着て背中にマントをまとい、毅然として立つ若い女性像である。深く克明に彫られた衣の襞はある種の仏像を思わせたりもするが、流麗な下半身にはかすかに女性の官能が秘められているのを感じさせる。あるイタリアの解説に「キリスト教のヴィーナス」(venere cristiana)とあって私は思わず膝を叩いたが、ここにはエロスではなく、信仰篤き中世人の「希望」に対する真摯な祈りと意志の力が秘められているように見える。
 一般にロマネスク美術の初期に現れる「月暦図」の造形は、素朴でおだやかな農村の風俗のように牧歌的なものに過ぎないが、アンテーラミの場合は、一点一点の図像の意味合いを確かめながら創り出された精神性の表現であり、彫刻における芸術的な価値の意志的な創造であるといえるだろう。

 ドゥオーモ広場を囲む第三の建物、西側の司教館についていえば、これももとは11世紀の半ばに建てられたものだが、その後数回にわたって改修されてデザインの統一性が失われ、建築芸術としては重要ではない。

アンテーラミ設計 パルマ洗礼堂

(図3)
アンテーラミ設計 パルマ洗礼堂

アンテーラミ<最後の審判> 洗礼堂西側壁画

(図4)
アンテーラミ<最後の審判> 洗礼堂西側壁画

洗礼堂内部に陳列されるアンテーラミの<月暦像>

(図5)
洗礼堂内部に陳列されるアンテーラミの
<月暦像>

〔4〕ミラーノの衛星都市

 都市の精神的中心であるカテドラルや洗礼堂に、敬愛を込めて農事の姿が描かれることは、『シエーナ』の章でも述べたように、まさに中世のコムーネにおける都市と農村(コンタードcontado)の幸福な関係を証言するものである。しかしパルマの場合、それは永続しなかった。すなわち、14世紀に入る頃からいくつかのコンタードに有力者が台頭し、それぞれがコムーネの政治的ヘゲモニーを争うことになって混沌となり、経済的にも活力を失うことになったのである。
 その機に乗じて近隣の諸侯たち、すなわちヴェローナのスカーラ家やフェッラーラのエステ家らが実力をもって介入し、エステのオビッツォ3世は1346年、金貨七万フィオリーニと引き換えに、ミラーノのルキーノ・ヴィスコンティLuchino Viscontiにパルマの統治権を譲渡する。こうして以後二百年にわたり、パルマは実質的にミラーノの支配下に入ることになった。大都市ミラーノはこの連載ではあえて扱わないので、ここでヴィスコンティ家とそれに続くスフォルツァ家について簡単に紹介しておこう。ヴィスコンティ家の出自はミラーノ近郊の封建農家であるらしく、12世紀中頃にその名が知られるようになるという。自治都市ミラーノはどちらかといえば教皇派で、おそらくかれらは司教の家臣としての働きが気に入られ、オットーネがウルバヌス4世によって大司教に命じられ(1262)、その後ミラーノの「永代君主」の地位を与えられる(1277)。その甥に当るマッテーオは逆に皇帝に近づき、ハインリッヒ7世から「皇帝代理」の称号を授かり、その後ろ盾を得てコーモ、クレモーナ、ピアチェンツァ、ベルガモ、パヴィーアなど、ロンバルディーア一帯の諸都市を次々に獲得する。こうしてご多分にもれず教皇と皇帝の対立に巻き込まれるのだが、さまざまな経緯の後、マッテーオの四男ルキーノの時には「教皇代理」の称号を得ることになる。そしてその彼がパルマを獲得する(1346)のである。さらにその三代後のジャン・ガレアッツォは皇帝ヴェンツェルよりducaの称号を得(1395)、ここに強大な力をもつミラーノ公国が誕生する。15世紀に入り、ジャン・ガレアッツォの次男フィリッポ・マリーアが三代目の公位を継ぐが、彼には男子がなく、その死(1447)によってヴィスコンティ家の直系が絶えることになる。後継者争いの中から実権を握ったのは、唯一の娘であるビアンカ・マリーアの夫のフランチェスコ・スフォルツァFrancesco Sforzaであり、こうしてスフォルツァ家によるミラーノ公国の支配が始まるのである。なおヴィスコンティ家の系図はきわめて複雑であって、分家の一部は20世紀にまで及び、有名な映画監督ルキーノがその一部に属していることも嘘ではない。
 さてスフォルツァ家はというと、ラヴェンナ近郊の裕福な農民の出身であるが、1400年代頃から優れた傭兵として名を馳せ、ナポリ王国内に領地を与えられるのを始めとして、プーリア、カラーブリアなど、南イタリアで勢力を有するようになる。フランチェスコがヴィスコンティ家と婚姻を結ぶことによって、北イタリアの覇権をも手に入れたことは、思いがけない幸運であったといわねばならない。スフォルツァ家は1450年から1500年までの半世紀、ミラーノ公国の領主となり、有名なスフォルツェスコ城がこの時造営される。そしてパルマもいぜんとしてその支配下にあった。ところがフランス王ルイ12世が突然侵入してきて領有権を奪い取り、スフォルツァのヘゲモニーも終ってしまった。つまりパルマは一時、間接的にフランスの領土となるわけである。しかしルイ12世の後をフランソア1世が継ぐと、教皇レオ10世はパルマとピアチェンツァの二都市を教皇領に取り戻すことに成功し、かくしてパルマは次の新しい時代に入った。
 ヴィスコンティ=スフォルツァの時代、パルマは文化的にはなにほどのこともなかったといってよい。外からやってきたこの領主たちは、市民に重税を課し、簒奪をほしいままにした。ただルキーノやフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは運河の掘削に意欲を燃やしたり、フランチェスコ・スフォルツァも銀行を創設して羊毛や紙の工業の促進に努めたことは記憶されるべきだろう。

〔5〕ファルネーゼ家の到来

 パルマが実質的に教皇領となった後、パウルス3世は皇帝カール5世と交渉し、1545年、息子のピエール・ルイージを送り込んでパルマ公に仕立て上げたことは冒頭に述べた。教皇パウルス3世はファルネーゼ一族の出身で、名をアレッサンドロといい、生まれた場所は不明だが、二十五歳ですでに枢機卿になっていた。ファルネーゼ家に関する記録が現れるのは12世紀であり、ラツィオ州のヴィテルボやウンブリア州のオルヴィエートに近いファルネータあたりに封土をもつ豪族だったらしい。一説にはランゴバルド族の後裔ともいわれるが、それは定かでない。ただ代々卓抜な傭兵であり、13、14世紀にオルヴィエート、ボローニャ、フィレンツェなどの防衛のために戦って大いに活躍し、それによって領地と富を増やしていった。戦いはつねに教皇の側に立っていたからローマとの関係は益々密になり、15世紀に入ると本拠をローマに移し、オルシーニ家やデッラ・ローヴェレ家といった名家と婚姻関係を結び、やがてローマの貴族社会で強力な地位を築くに至った。かれらによって建てられたローマのパラッツォ・ファルネーゼは現在フランス大使館として使われていることはよく知られている。
 しかし、もともと縁がなかったパルマにファルネーゼ家が乗り込んできたことには、皇帝をはじめ、周辺のエステ家やゴンザーガ家などの諸侯がいい顔をせず、とりわけ地元の封建貴族たちに歓迎されるはずはなかった。しかも、ピエール・ルイージ公は圧制をもってこれに応えた。すなわちかれらを自らの領地ではなく、市内に居住することを強制し、行政権を奪い、財政的制裁を加えた。しかし結局、1547年、ミラーノのフェッランテ・ゴンザーガから送られた刺客によって、ピエール・ルイージは暗殺される。
 それに反し、その後を継いだオッターヴィオ公(在位1547-86)は、比較的善政を行って市民の信頼を勝ち取り、ファルネーゼ家の支配は安定を得ることになる。パルマ市内にはポー河の小さな支流(Torrente Parma)が流れているが、オッターヴィオはそれまで荒廃していた左岸(西側)を整備し、初めて定住のための邸宅、パラッツォ・ドゥカーレを建設した(1561着工)。設計者はローマ在住で終始教皇とファルネーゼ家に仕えた建築家ジャーコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラVignola(1507-1573)であり、彼はイタリア建築史においてマニエリズモからバロックへの過渡期を代表する作家である。
 次代のアレッサンドロ公(在位1586-92)はとりわけ軍事技術の研究に優れ、そのためスペイン王フェリペ2世の要請でフランドル方面に進攻して駐在することが多かったが、パルマでは市の南端にチッタデッラCittadellaという壮大な城塞を築いた(1591着工)。設計は何人かのお抱えの技師たちに委ねられたというが、基本計画はアレッサンドロ自身の発案によると考えられている。なにしろ幅500メートルもある大きな城だから、完成までに十数年を要したが、その工事に三千人ほどの人夫が雇われ、貧民救済に役立ったと史書に記されている。地域経済を潤すための公共工事の発注がわが国でもしばしば問題になることを思い合わせて興味深いが、皮肉なことにパルマはその後一度も外敵に攻められることがなく、この城塞も本来の目的に使われることなく終った。現在は公園になっている。
 ところが非常におもしろいことに、チッタデッラの平面は正五角形なのである。そして五つの稜角に防禦用のスペースのための突起がついた形をしている。古代から中世に至る西洋建築において、五角形プランの建物は現存しない。そもそも数の象徴性という点からみて、「5」はキリスト受難の際の傷の数という意味が見出されるとはいえ、いささかこじつけっぽく、西洋では「6」や「8」に比べて重要性が低いといえるだろう。つまりそれだけ不規則で“独創的”な形式がここで採用された根拠は何か。それがどうもわからないのである。実はこれより半世紀前の1530年頃、ラツィオ州カプラローラCaprarolaに、枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ(後の教皇パウルス3世)の委嘱により豪壮な邸宅が建造されたのだが、これがまさに正五角形プランなのだ。設計者はローマの建築家アントーニオ・ダ・サンガッロSangalloで、その時そこに残っていた古い城塞の土台を活用したのだという。サンガッロの死後、すでに述べたヴィニョーラが引き継いで全館が完成する。とするとパルマのチッタデッラの五角形は、同じファルネーゼ家のカプラローラのパラッツォに由来すると考えるのが当然だと思うのだが、手元の複数の資料にはそういう見解が全く示されず、アレッサンドロ公が遠征先のアントウェルペンで実見した城塞に基づくと書かれている。このあたりのことはやや怪しいのではないだろうか。アントウェルペンの資料を調べてみても、どうしてもそういう城塞は見当たらないから、おそらく破壊または改変されて実在しないのだろう。いずれにしても、五角形の城塞は函館の五稜郭や、アメリカの「ペンタゴン」の祖型となるものだろうから、とても気になるところなのに、その経緯が建築史でどうもあまり問題にされていないのが私には不思議でならない。
 次にアレッサンドロの子、ラヌッチョ1世(在位1592-1622)は、河の東側の市の中心部に新しく宮殿を造り、対岸から本拠を移動した。これはすでにあったいくつかの建物を連結させ、三つの中庭を囲い込む壮大な建造物の総体で、ファルネーゼ公の公邸と、いわば政府機関を集約したものである。通称ピロッタPilottaと呼ばれ、これは当時宮廷人の間で行われていたペロータpelotaという現代のハイアライのようなスポーツ競技に由来する。1602年に着工したこの宮殿の具体的な設計者としては四人ほどの建築家の名があげられるがそれはあまり重要ではなく、基本計画はラヌッチョ自身の意向が強く、部分的にはマドリードのエスコリアル宮殿を模しているという。列強に伍するパルマ公国の権威を誇示したかったのだろう。

 パラッツォ・デッラ・ピロッタの内部で特筆すべきものは、1618年に造られた劇場(テアトロ・ファルネーゼ)(図6)である。ラヌッチョの息子のオドアルドと、メーディチ家のコジモ2世の娘マルゲリータの縁談が持ち上がって、コジモの来訪が予定され、その歓迎のために急遽計画されたのであった。設計を依頼されたのはフェッラーラのジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(通称ラルジェンタ)である。前章『フェッラーラ』で紹介したように、彼はすでにフェッラーラでエステ家のために革新的な劇場を完成させており、この分野のいわば第一人者であった。16世紀末頃から各宮廷で演劇専用の空間を設けることが始まり、1580年にはパッラーディオによるヴィチェンツァの有名なテアトロ・オリンピコが造られていたが、それは古典的なローマの劇場の理念に基づいたものだった。それに対してアレオッティは、半円形ではなく、もっと奥行きの深いU字形をなす高い基台の上に、モミ材の十四段の観客席を築いた。これは収容人員を増やすと同時に、両端部の客席からの視野を修正する効果をもち、後に誕生する市民的劇場における馬蹄形のプランを先取りするものであった。さらに、舞台裏に広いスペースが設けられ、地下の空間を使って操作する可動式装置が取り付けられ、舞台芸術の歴史に画期的な一ページを開いた。
 この年コジモ2世は実はパルマにやってこなかった。しかし10年後の1628年にオドアルドとマルゲリータの結婚は成立し、テアトロ・ファルネーゼはようやく開場した。柿落しにはモンテヴェルディが特に作曲した<『アミンタ』のための第三インテルメーディオ>とアッキッリ−ニ台本の<メルクーリオとマルテ>が上演された。後者は作曲家自身の種目表記では「馬上試合」を意味する「トルネーオtorneo」となっており、平土間を全部利用した模擬海戦のような大スペクタクルが展開したらしいが、譜は消失した。しかしこの劇場は1732年を最後に閉鎖される。一定の貴族階級を対象にして宮廷の内部に組み込まれる形の劇場は役割を終え、17世紀中葉からヴェネツィアを皮切りに、すべての階層に開かれた市民劇場が相次いで建設されることになったからである。しかも第二次大戦の末期の爆撃によって完全に焼失してしまったのだが、戦後、木造の構造体だけが復元され、劇場建築史の貴重な資料として保存されている。
 ラヌッチョの後、パルマの経済は急速に衰えを見せ、アントーニオ(在位1727-31)には子がなく、姪のエリザベッタの嫁ぎ先のドン・カルロス(スペイン王フェリペ5世の息子)に公国は譲渡される。ファルネーゼ家によるパルマ支配は八代にわたったが、総じていえることは、パルマ公国はこの時代の欧州全体の中ではさほどの政治的重要性をもつに至らなかったということだ。

テアトロ・ファルネーゼ内部

(図6)
テアトロ・ファルネーゼ内部

〔6〕天井画という芸術

 これまで述べたことでわかるように、15・16世紀のイタリア・ルネサンスという輝かしい時代に、ヴィスコンティもスフォルツァもファルネーゼも、かれらの本国におけるほどのメセナぶりをパルマでは発揮しなかった。それというのもかれらにとってパルマは二義的な領地でしかなかったということだろう。しかし先にちょっと紹介した画家コッレッジョは、パルマの宮廷のためよりも教会のために大きな仕事を残した。ドゥオーモのクーポラの天井画を描いたことは先に述べたが、実はそれよりも前にパルマにおいて、サン・パウロ修道院とサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画を制作している。そしてさらにそれよりも前に、アンテーラミが設計した洗礼堂でも、クーポラの天井がフレスコで装飾されていた。そこでこの機会に天井画というジャンルについて少し考えてみたい。
 ローマのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画については、イタリアに行く前からもちろん知っていた。初めてそこに足を踏み入れた時、熱心な何人かの人が手鏡を用意していて、顔を下に向けて天井の映像を観察しているのを見てなるほどと感心した。そしてその後、西洋の建物にはいたるところに天井画が描かれていることに気がついた。古い由緒のある建物を利用した美術館や、時には役所の会議室などでも、部屋に入るとしばしば天井に視線を向けさせられた。こういうことは日本にいた時はあまり知らされていないことだった。もとより仏教世界においても、中央アジアにおける弥勒信仰などに見られるように、仏龕の天井に天空を表現することはしきりに行われていたが、日本の仏寺で時に見られる天井画は芸術的にはほとんど取るに足らないといえよう。西洋でも絵画としての芸術的な価値や意義という点では、垂直のいわゆる壁画と比べてあまり重要でないものが多いのは確かだが、しかし中には美術史上、大きな意味をもつ作品も数は少ないが存在するし、天井画の表現形式に伝統と変遷の系譜が見出されるに違いないという問題意識を、私はもつようになった。
 天井画というとき、四角形(長方形)の平面の場合とクーポラの凹凸面のものとに分ける必要がある。前者の場合には、通常の垂直方向の壁面と水平面という違いがあるにせよ、三次元の世界を二次元の平面に置き換えるという点で、空間表現の技術にさほどの困難を伴わないといえる。この分野の代表的作品が、先にあげたミケランジェロの<天地創造>ということになるだろう。しかし特に17世紀以降、世俗建築に流行する平面的な天井画においては貴族趣味に迎合した饒舌な装飾性が目立つのみで、絵画芸術としての感動を与えるものはきわめて少ない。それに対してキリスト教聖堂のクーポラにおいては、頂点を神の住まいである天空に見立て、壁面に描かれる形象全体がそこに収斂するように構成されている。その場合、半球形の曲面に、下からの視点を計算して一定のイメージを表現しなくてはならないから、なんらかの特殊な考案が要求されることになる。結論をいえば、パルマのドゥオーモにおけるコッレッジョの仕事が、この形式の一つの完成を示すものと私は思う。
 さておもしろいことに、パルマにはクーポラの天井画が八つも揃っている。年代順に見て行こう。まず第一に、アンテーラミの洗礼堂(1260-70)においては十六本の石材のリブが傘のように開いて穹窿を構築しているが、頂点の部にはダイヤ形の星が配置され、赤味がかった天空が表されており、リブで分割された区画はおのおのが四段に仕切られて十二使徒や洗礼者ヨハネなどの聖像が個別に描かれ、神の支配する聖なる階層を表しているといえる。
 次は市の中心部にあるベネディクト会の(元)サン・パウロ女子修道院の二つのクーポラである。この建築は中世の早い時期に建てられたものだが、16世紀の初め、修道院長ジョヴァンナ・ダ・ピアチェンツァによって大幅に改造され、二つの天井画が描かれたのである。このジョヴァンナという女修道院長は、実は並々ならぬ人物である。聖職者の身でありながら彼女は外部の知識人たち、たとえばジョルジョ・アンセルミといった音楽家=数学者などと交流をもち、いわゆる人文主義的教養を身につけていた。彼女はローマ教会の修道院に対する管理を嫌い、修道女の外出規制、財産の共有、修道院長の任期といった点で教会と果敢に争う姿勢を見せ、自らの修道院の資産管理を義兄弟のシピオーネ・モンティ−ノに勝手に委譲するというようなことをして、波乱を起こしたりした。そのジョヴァンナはまず彼女の私室であった「アラルディの間」(Camera dell'Araldi)と呼ばれることになる部屋を改装し、アレッサンドロ・アラルディという地方画家に、穹窿の装飾画(1514)(図7)をかかせた。天井の頂点には擬似的な天窓が描かれ、何人かのプットが見下ろしている。曲面の下縁にはいくつかの額縁のような区画の中に旧約・新約の場面が表されているが、残りの広い部分全面には濃紺のバックの上におびただしい数の幻想的動物や寓意的図像がちりばめられている。この画家はまだ後期ゴシックの枠内にあり、キリスト教的要素もわずかに残してはいるものの、注文者の意向が色濃く滲み出ている。
 ところがその四年後、偉大なる画家コッレッジョと出会ったジョヴァンナは、もう一つの部屋「聖パウロの間」(Camera di S.Paolo)のクーポラの天井画(図8)を彼に依頼する。推測によれば、この部屋は聖職者のみならず、貴族の淑女たちとの社交的なサロンのような場だったらしい。こちらは地元の建築家によって、洗礼堂にならって十六本のリブが放射線状に開いた傘の骨のように空間を支える構造になっているが、描かれた主題には驚かされる。見上げる頂点には三つの三日月が組み合わされていてあたかも天空の表現のように見えるかもしれないが、実はそれはなんとジョヴァンナ・ダ・ピアチェンツァの家紋なのである。リブの間の十六の区画を見ると、上部には濃緑の背景に果物がふんだんに描かれ、下の方には全部で三十六人のプットがいてさまざまな仕草をしている。そして下段にルネッタがあってそこにはギリシア・ローマ神話の神々が登場する。それらの図像に関しては、美術史家ロンギやパノフスキーらが専門的な立場から解釈を試みているが、単純に古典の再生という以上に異教的なさまざまの寓意が込められているらしい。さらに一番下の縁にはいくつかのラテン語の警句が刻まれていて、その出典はウェルギリウス、オウィディウスなどを始めとして、フィチーノによる新プラトン主義思想に関わるものであることは明らかである。
 つまりこの修道院長の部屋にはキリスト教的な要素は一かけらもないのだ。この絵がかかれたのはルターが『九十五箇条の提議』(1517)で宗教改革の狼煙を上げた直後(1519)であり、おそらくその運動と直接の関係はないにせよ、法王庁の牢古な権威主義に対する反撥は教会の奥深い内部で醸成されていたことを物語るエピソードといえるだろう。ジョヴァンナは1524年、死に瀕してようやく教皇の権威に屈したという。そしてその死後、彼女の修道院は厳格な隔離状態に置かれ、コッレッジョの天井画もまた、なんと二世紀半にわたって忘れられることになった。1774年にこの作品を発見したのはアントン・ラファエル・メングスというドイツの画家であった。

アンテーラミ<月暦像>のうち<2月>

(図7)
アレッサンドロ・アラルディ サン・パオロ女子修道院〔アラルディの間〕天井画 1514

アンテーラミ<月暦像>のうち<3月>

(図8)
コッレッジョ パオロ女子修道院〔聖パオロの間〕天井画 フレスコ 1519

〔7〕コッレッジョによる天井画形式の完成

 さて話を戻して、コッレッジョが次にかいた天井画はサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂(San Giovanni Evangelista)のクーポラ(図9,10)である。この教会はもともと10世紀に造られたベネディクト会修道院に付随するものだったが、15世紀に火事でほとんど崩壊し、1490年頃から再建された。建築家の名はここでは省くとして、コッレッジョも設計の当初から関わっていたと思われる。すなわちクーポラに関して、通常設けられるランターン(頂上に穴を開けてその上にかける小さな屋根)を廃し、自然光が直射することのない薄暗い空間を意図的に要求した。ここに描かれたフレスコ画の主題については解釈が二転三転し、はじめ<キリストの昇天>と漠然と考えられていたが、一旦は黙示録による<聖ヨハネの幻視>と訂正され、近年<聖ヨハネの彼岸への旅立ち>という説が最有力となった。すなわち死後の昇天を待つヨハネを迎えるためにキリストが天上から下降してくるという場面である。頂上部に白い衣をまとったキリストが空中に浮かび、黄金色の光に包まれている。外円部には十二使徒が灰色の雲の上に座り、キリストを取り巻く大きな輪を形成し、使徒たちとの間には何人かの小天使がいて余白を埋めている。手前に近い外輪の端に、聖ヨハネと認められる人物が感動を込めた姿勢で描かれている。長いあごひげを生やした老いた風貌が、彼の死という主題を特定する一つの決め手となった。ここでは放射線状の区分を設けることなく、曲面が統一された空間を提示している。キリストの体は極端な短縮法で表され、クーポラの直下からの視点を設定した場合、最も自然の状態に見える。なお、キリストの頭髪の動きを観察すれば、キリストの運動は上昇するのではなく、下降する状態を表していることは明白であり、このことも主題の特定に根拠を与えている。こうして画家はキリストを中心とする群像の短縮法による表現と、頂点から放射する描かれた光の明から暗への諧調によって、現実の建築空間と絵画空間を一致させ、頂点の部分は物理的開口部をもたずに、明らかに天空を表現しているのである。

コッレッジョ <聖ヨハネの彼岸への旅立ち>

(図9)
コッレッジョ <聖ヨハネの彼岸への旅立ち> サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂 クーポラ天井画 フレスコ 1520〜21

コッレッジョ <聖ヨハネの彼岸への旅立ち> 部分

(図10) 同部分

 コッレッジョの第三の天井画がドゥオーモの<聖母被昇天>(1526-30)(図11)である。内陣の真上にあるクーポラは八角形(1093x1195cm)に仕切られた外縁の上に半球形の空間を作り出しているが、その曲面いっぱいに統一された画面が描かれている。これについては以前小論文を書いたことがあるのでその一部を引用したい。「ここではサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタよりも一層複雑な構図が展開する。その一つの理由は、このクーポラがすでにゴシック期に建造されており、いわゆる尖頭アーチをもつ高く伸び上がった曲面が生まれることで、コッレッジョは、下からの視点を考慮し、半球形でありながら、視覚的にはより平面に近い効果を生み出そうとしたと考えられるからである。さらにクーポラの最下部には八個の円窓が設けられてあり、自然光が複雑な陰影を空間に与えることになる。その条件の下で画家は空間に上昇性を与えるため、サン・ジョヴァンニとは異なる方法をとらざるを得なかった。すなわち、群像全体に激しい運動性を与え、それが強い求心力となって上昇のイリュージョンを生み出すことである。……最下部の円窓の間には十二使徒を立たせているが、その上には渦巻く雲の輪を描き、つぎに、密集して浮揚する天使たちを描く。天使たちは、踊り、歌い、楽器を奏でるなど、さまざまのポーズをとりながら重複し、大きな渦巻のエネルギーを感じさせる。重要なことは、主役の聖母はそれらの天使の群の中にあって、支えられるように表されていることであり、同心円状の構図の中心はといえば、ここでは金色の光が描かれているのみであり、中心に最も近い位置にいるのは聖母ではなく、先導する大天使ガブリエルである。つまり「被昇天」の聖母は自力で上昇するのではなく、天に召されるのであるから、中心を少しはずした位置に置かれるという宗教的解釈も成り立つであろう。いうまでもなく、これらの個々の図像はいずれも短縮法を用いて描かれている。……要するに、パルマのドゥオーモにおいては、絵画が建築と一体化する以上に、静的な建築空間の中に絵画によるダイナミズムを創り出し、絵画がむしろ建築空間を支配して聖なる天空の存在を実現させているといえよう。」(小川熙『イタリア教会建築の天井画における天空表現』中部大学国際関係学部紀要no.7:1991)
 こうしてキリスト教建築における天井画の表現は一つの完成を見た。以来、その方法は多くのバロック建築に採用され、一つの様式として定着することになるのである。
 残り三つのパルマの天井画について簡単に述べよう。六つ目はサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂(Santa Maria della Steccata)である。もともと別の場所にあって民間の篤い信仰を集めていた聖母像を迎えるために、1521年からパルマ市当局によって建設が進められたものである。設計には数人の地方建築家が加わり、プランはギリシア十字の集中式であり、アルベルティが提唱した最新の様式による作例である。クーポラの天井画(1570)の主題はここでも<被昇天>である。作者はクレモーナの画家ベルナルディーノ・ガッティ(通称イル・ソヤーロ)で、明らかにコッレッジョの前例の影響を強く受けているが、人体の短縮法はやや緩やかになり、その意味では少し後退している。コッレッジョのあまりにも大胆な“空中浮揚”の表現は、保守層からは必ずしも歓迎されなかったらしい。

コッレッジョ  <聖母被昇天>

(図11)
コッレッジョ  <聖母被昇天> パルマ・ドゥオーモ クーポラ天井画 フレスコ 1526〜30

 次はサンタ・マリーア・デリ・アンジェリSanta Maria degli Angeli(通称カップッチーネCappuccine)である。これもまたある街角の壁に描かれて市民から敬慕されていた聖母子像を収納するために、地元の建築家によって建造された(聖像は後にドゥオーモに移転)。内陣のクーポラのフレスコ画(1588)(図12)の作者はパルマ生まれの画家ジャン・バッティスタ・ティンティ、主題はこれまでとちがって<天国>である。天頂には聖霊の象徴である白い鳩が表され、おびただしい数の金色のケルビムがそれを取り巻いている。外円には裸の小天使たちに混じって父なる神と聖母が一際目立つ姿を現している。天頂に向かう求心的構図はコッレッジョの方法に基づくものだが、人物の描写や色彩感覚はまさにマニエリズモを代表しているといえる。  時代が下がって1604年、もう一つの霊験あらたかな聖母子画を納めるために、サンフランチェスコ会によってサンタ・マリーア・デル・クワルティエーレ聖堂(Santa Maria del Quartiere)が建てられる。設計にはテアトロ・ファルネーゼの作者アレオッティも参加したと思われるが、平面は珍しく六角形で、外観は六角錐の形をしている。内部のクーポラにはここでも<天国>(図13)が現れる。求心的な構図は前例と同様だが、ここでは百人に近い聖人の凝集の中に、聖霊、父なる神、キリスト、聖母が描き込まれ、壮大なダイナミズムが展開する。作者はピエール・アントーニオ・ベルナベーイという人だが、もう普通の美術史には登場しない末端の画家であり、マニエリズモの最後を締めくくったということだろう。

 少し首が疲れた! 天井画を離れてそれ以外の美術について簡単に触れておこう。卓越したコッレッジョの影響の下でパルマにも何人かの画家が育った。中でもパルミジャニーノParmigianino(1503-1540)は初期にコッレッジョの感化を受けたのちローマに赴き、ラッファエッロ、ミケランジェロに学び、ジュリオ・ロマーノと並んでマニエリズモを代表する画家となった。彼の錬金術への傾倒はよく知られており、一筋縄ではいかぬ特異な作家である。パルマでは前述のサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂の装飾にも加わったほか、別の教会のために制作した<首の長い聖母>(1535頃)(図14)は現在ウッフィーツィ美術館所蔵の名品として多大の人気を集めているものだ。
 そのほか名前だけをあげれば、ミケランジェロ・アンセルミ、フランチェスコ・マリーア・ロンダーニといった画家たちがパルマを中心として活躍するが、もはやマニエリズモの影響は相互的に波及し合い、結局、美術史において「パルマ派」と定義されるには至らなかった。「エミリア派」などと呼ばれることもあるが、その概念はあまり明確ではない。しかもファルネーゼ家のコレクションは、カルロスがシチリア国王となってナポリに移住した時に携行し、現在のカポディモンテ美術館の収集の核となった。しかしその弟フィリッポ公は新たに美術品の収集に意欲を燃やし、それが母胎となって生まれたのがパラッツォ・デッラ・ピロッタの中にある現在のパルマ国立美術館である。1967年に最先端の設備をもって改装されたこの美術館には、コッレッジョの作品も五点ほど残り、パルミジャニーノは二点あるが、なかでも<トルコの女奴隷>(1530頃)(図15)は類例を見ない蠱惑的な一品である。ほかにはレオナルド・ダ・ヴィンチの手になると考えられる貴重なモノクロームの<髪の乱れた少女>(1490)があるし、18世紀のヴェネツィア派の画家が充実している。

〔8〕ブルボン家から近代へ

 パルマの歴史に話を戻すと、カルロスがナポリに去った後、しばらく間を置いてフィリッポが「赴任」し、公国はブルボン家の支配の下に入った(1749)。フィリッポの妻ルイーズ・エリザベートはフランス王ルイ15世の娘であり、彼女はパルマの文化的空白を埋めるために、パリから大勢の芸術家や職人を招き寄せた。さらに疲弊した経済や沈滞した社会を立て直すために、敏腕の政治家ギョーム・デュ・ティロDu Tillotを呼んだ(1759)。彼はこの時代を風靡した啓蒙主義思想を旗印として、種々の政策を実行する。農業・工業を促進し、文化的にはパリと直結させることによって、パルマの欧州における地位を高めようとした。「小さな首都」(petite capitale)というフランス語でパルマが語られたりした。たとえば美術アカデミアを創設し、いまでいう国際コンクールを開き、そこにはゴヤも参加したこともある。ついで図書館、古代博物館、植物園を作る。また、その頃パルマの教育界を牛耳っていた旧弊なイエズス会を追放し、その場所に大学を新設した。さらにはフランスの建築家エンヌモン・アレクサンドル・プティトPetitotを招聘して宮廷建築家の地位を与え、新古典主義の様式に基づき、市街の建物の高さや外観の色彩を統一するといった都市づくりの政策を進めた。

ジャン・バッティスタ・ティンティ <天国>

(図12)
ジャン・バッティスタ・ティンティ <天国> サンタ・マリーア・デリ・アンジェリ聖堂 クーポラ天井画 フレスコ 1588

ピエール・アントーニオ・ベルナベーイ <天国>

(図13)
ピエール・アントーニオ・ベルナベーイ <天国> サンタ・マリーア・デル・クワルティエーレ聖堂 クーポラ天井画 フレスコ 1629

パルミジャニーノ <首の長い聖母>

(図14)
パルミジャニーノ <首の長い聖母> 油彩、板 ウッフィーツィ美術館 1535頃

パルミジャニーノ <トルコの女奴隷>

(図15)
パルミジャニーノ <トルコの女奴隷> 油彩、板 パルマ国立美術館 1530

 1796年、一旦ナポレオンの支配を受けることになり、その後ウィーン会議の決定によって、パルマ公国はオーストリア皇帝フランツ1世の娘でナポレオンの妻、マリー・ルイーズに委託されるようになった(1815-47)ことは冒頭に記した通りである。同時代の彫刻家アントーニオ・カノーヴァの手になる彼女の肖像(大理石、1814)と、G.B.ボルゲージという画家が描いた油彩の肖像画(図16)がパルマ国立美術館にあり、美しく聡明な風貌が偲ばれ、家臣の絶大な敬愛を受けていたというのもうなずける。彼女は公共の利益となる都市改造を次々と行い、労働者に仕事の場を与えた。たとえば市内の肉屋をすべて一箇所に集めた「総合食肉市場」や公営の墓地を整備したり、ピロッタ宮殿の中に前述の国立美術館の前身であるギャラリーを設けるなど、近代都市としての基盤を整えていった。なかでもピロッタ宮殿の近くにある「王立劇場」(Teatro Regio)と呼ばれる建物は、いまや特権階級を離れて市民のものとなった演劇、とりわけオペラ公演の施設として、切符売場、カフェテリア、クロークなどを備えて造られ、ミラーノのスカラ座、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場、ナポリのサン・カルロ劇場と並んで、イタリアを代表する劇場の体裁が整えられた。
 最後につけ加えると、ファルネーゼ時代、パラッツォ・ドゥカーレに接し、18ヘクタールもある広大な庭園(Parco Ducale)が作られており、それは16世紀に愛好されたいわゆる「イタリア式」の幾何学的庭園であったが、18世紀のプティトによって、よりモニュメンタルなフランス式に変えられる。すなわち、池や小建築などを巡ってリヨンの彫刻家ブーダールによる多くの石彫の人像が配置された。そしてさらにマリー・ルイーズの時代、より自然主義的な「イギリス」式に修正され、初めて一般市民に開放された。この庭園が、ヨーロッパの庭園の三つの様式の推移を経験したというのはおもしろいことである。
 マリー・ルイーズ女帝の死後、パルマの主権は一時的にブルボン家に戻ったが長続きはせず、サヴォイ領に統合された後、現代のイタリア共和国の時代となるが、都市の景観としては基本的に変ることはなかった。

 こうして見てくると、パルマの近代がいかにフランスの影響を強く受けたかを思い知らされる。街のいたるところにプラタナス、ポプラ、ニレ、カエデ、マロニエなどの街路樹が植えられ、黄色を主調とする清楚な建築の外観と調和し、河岸には装いを凝らした男女が散策したりしていて、セーヌ河とはいかないまでも、なにかしらパリを思わせるエレガントな雰囲気が感じられる。余談だが、都市の中で「樹花」の美しさを私が実感したのはヨーロッパで暮し始めてからだった。
 改めて考えてみると、イタリアの近代化の過程において、最もいちじるしい影響を受けたのはフランスであった。第二次大戦後においてもつい先頃まで、中等教育における第一外国語はフランス語であり、知識人は好んでフランス語を操る風があり、英語は通じないのが普通であった。1967年に初めてイタリアに渡った私はそのことを身をもって体験したものである。しかし90年頃から学校教育の改革が進められ、いま若者の間で急速に英語が普及しつつあるという現実がある。イタリアもまた外来文化の受容に関して、大きく変わろうとしているように見える。

パルミジャニーノ <トルコの女奴隷>

(図16)
G.B.ボルゲージ <マリー・ルイーズの肖像> 油彩、パルマ国立美術館




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