扮装好きな二人のアルブレヒト 秋山 聰

枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク

ハッレ、マルクト教会主祭壇画

(図1) ハッレ、マルクト教会主祭壇画(クラーナハ工房)、1520-25年頃。中央画面右下に聖母子に向かって祈るアルブレヒトが描かれています。

『磔刑のキリストの前で祈りを捧げるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』

(図2) ルーカス・クラーナハ(父)、『磔刑のキリストの前で祈りを捧げるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』、ミュンヘン、アルテピナコテク

 アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(1490-1541年)(以下、アルブレヒトと略称。なお同名を有するアルブレヒト・デューラーについてはデューラーと略称)は、ドイツ有数の名家ホーエンツォレルン家に生まれ、ブランデンブルク選帝侯を継いだ兄ヨアヒム・ネストールの尽力により若年から高位聖職者の道を歩みました(註1)。更に先例をみない形でマグデブルク大司教とマインツ大司教を兼任した上に、1518年には枢機卿に登り、ドイツにおける最も高位の聖職者となります。前例を破る形での昇進や兼職等のためには莫大な経費が注がれましたが、その多くはフッガ−家からの借金でまかなわれました。教皇庁に様々に便宜を図ってもらう見返りの一環として、職有券販売を推進した元凶としてアルブレヒトに対して、宗教改革者マルティン・ルターの批判の矛先が向けられるようになります。宗教改革の火ぶたを切ったことで有名なルターの『95ヵ条の提題』(1517年)は、アルブレヒトに宛てられたものでした。そのためアルブレヒトは今日ではルターの最大の敵としての側面のみが記憶されていると言っても過言ではないでしょう。
 しかし近年、アルブレヒトはザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公と並ぶ美術作品および聖遺物の大コレクターとして研究者から再評価されつつあります。肖像画マニアとでも言うべき人物で、極めて多くの肖像画(図1、図2)が遺されていますが、その大半はルーカス・クラーナハ(父)やその工房の作で、聖ヒエロニムス(図3、図4)や聖エラスムス、聖マルティヌス(図5)等の聖人に扮した「扮装肖像画」もあります。中でも宮廷画家として抱えたマティアス・グリューネヴァルトの手になる『エラスムスとマウリティヌスの出会い』(図6)は有名です。アルブレヒトは美術に対して確かな眼識を有していたようで、既にドイツにおける随一の画家として自他ともに認められていたアルブレヒト・デューラーとも交渉を持っていました。

『書斎の聖ヒエロニムスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』 『荒野の聖ヒエロニムスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』

(図3)ルーカス・クラーナハ(父)、『書斎の聖ヒエロニムスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』、ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館、1525年

(図4) ルーカス・クラーナハ(父)、『荒野の聖ヒエロニムスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』、ベルリン国立美術館絵画館、1527年

『聖マルティヌスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』 『聖エラスムス(=アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク)と聖マウリティウスの出会い』

(図5)ルーカス・クラーナハ(工房)もしくはシモン・フランク、『聖マルティヌスとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』、アシャッフェンブルク市立博物館、1524年?

(図6)マティアス・グリューネヴァルト、『聖エラスムス(=アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク)と聖マウリティウスの出会い』、ミュンヘン、アルテピナコテク、1520/30年頃


デューラーによる銅版肖像画『小枢機卿』

 デューラーをその若い頃から庇護するように作品を注文してきたフリードリヒ賢明公とは異なり、デューラーよりも2世代ほど若いアルブレヒトがデューラーと親交を持ち、作品注文をするようになるのは随分と後になってからのことで、すでにドイツにおいては名声を確立していたデューラーに対して、恐らく1518年にアルブレヒトは銅版画による肖像画を注文しました。この注文はデューラーの創作意欲を随分と刺激したようで、この後フリードリヒ賢明公や人文主義者のヴィリバルト・ピルクハイマー、エラスムス、メランヒトンら、当時のアルプス以北を代表する知識人たちのブロマイドとも言うべき銅版肖像画が相次いで生み出されることになります(註2)。1518年、アウクスブルクにおいて開催された帝国議会に出席したアルブレヒトの肖像素描を描く機会がデューラーに与えられました。この際木炭で描いた下絵(図7)を基にして翌1519年に制作された銅版肖像画は『小枢機卿』(図8)と呼ばれます(註3)。これは1523年に制作されたもう一枚の銅版肖像画(『大枢機卿』(註4)(図9))との寸法の大小に基づく呼称です。
  『小枢機卿』は、銅版原版とともに200枚の刷りがアルブレヒトのもとに送り届けられましたが、これに対してデューラーは200グルデンとダマスコ織の布20エレンの報酬を与えられています(註5)。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がデューラーに与えていた終身年金の額が100グルデンであったことからみても、アルブレヒトの満足の度合いが推し量られます。
 ところで、原版を納入したとはどういうことでしょうか。通常、原版は画家のもとに留められ、随時刷られた版画が販売されるというのが一般的でした。しかし銅版肖像画は、それまでの物語主題を主とした銅版画とは性格が決定的に異なります。それまで肖像メダルが果たしていたような君主間での親交や外交を深めるための手段を、ここでは新たなメディアとして登場した銅版画が引き受けたのです。そのためこの種の原版の扱いを一介の画家に委ねるわけにはいかず、君主ないしその宮廷が周倒に管理すべきものと見なされたのは当然のことでした。銅版画は、銅版肖像画によって、新たに政治的メディアとしての性格を帯びることになったのです。

『ハッレ聖遺物書』

 原版を入手することによってアルブレヒトは、その活用を考えることが出来るようになりました。『小枢機卿』は、早速、アルブレヒトがフリードリヒ賢明公による先例に倣って刊行させた『ハッレ聖遺物書』の見返しに利用されました(註6)(図10)。このようなことは、原版があってこそ初めて可能なことです。聖遺物コレクターおよび美術パトロンとしてアルブレヒトは、フリードリヒ賢明公を手本ともライヴァルともみなしていました。中でも彼が憧れていたのは、フリードリヒが1509/10年に刊行した『ヴィッテンベルク聖遺物書』だったようです(註7)。1509年の時点で実に5005点もの聖遺物を収集していたフリードリヒは、宮廷画家ルーカス・クラーナハの木版挿図を付した展覧会カタログの原型とでも言うべき聖遺物目録の見返しに、これまたクラーナハに制作させた自らと共同統治者ヨーハンとの銅版二重肖像画(図11)を刷らせました。これはそれまでの各地の聖遺物書とは異なる画期的な行為と言えます。通常、聖遺物書の表紙ないし見返しには、当地ゆかりの守護聖人の像が配されます。しかし『ヴィッテンベルク聖遺物書』では聖人像を押しのけるかのように、聖遺物を収集した君主の肖像が堂々と配されたのです。聖遺物を見ることは、人々にとって様々な功徳をもたらすと信じられていましたので、それらを集めて人々に呈示することが、君主の仁慈を示す格好の手段とも捉えられたのですが、この種の聖遺物書の表紙に、君主のそれも銅版画による肖像を付した事例はこれ以前にはありません。
 アルブレヒトも美術作品の注文同様、聖遺物コレクションにおいてもフリードリヒの顰に倣おうとしました。そもそもアルブレヒトはフリードリヒの弟エルンストの後継者としてマグデブルク大司教に選任された人物で、彼の美術作品コレクションも聖遺物コレクションも、エルンスト・フォン・ヴェッティンから引き継いだものでした(註8)。前任者エルンスト自身が、何かと兄フリードリヒ賢明公の影響下に、美術作品や聖遺物の収集に努めていましたので、元々ヴィッテンベルクとハッレの美術・聖遺物コレクションの性格は似通ったものでしたが、アルブレヒトがエルンストの跡を襲うことによって、両コレクションには、ホーエンツォレルン家とヴェッティン家との競合という新たな要素が加わることになったのでした。ですからアルブレヒトの収集活動には、単にフリードリヒを模倣するのではなく、それを越えようと努力した節が随所にうかがわれます。例えば『ハッレ聖遺物書』に収録された聖遺物の数は優に『ヴィッテンベルク聖遺物書』を越えています。このような事情を勘案すると、見返しの銅版肖像画の制作者にデューラーが選ばれたのも当然のことと思われます。当時ドイツにおいてクラーナハを超える存在として衆目の一致するところ、ドイツ最高の画家と言えばデューラーしかいなかったのです。『ヴィッテンベルク聖遺物書』を模倣しながらも、それを超えたいと願うアルブレヒトにとって、見返しに刷る銅版画の作者としては、デューラー以外考慮の余地はなかったと言ってよいでしょう。ひょっとすると『ハッレ聖遺物書』における聖遺物容器の木版挿図をも、アルブレヒトはデューラーに担当させたかったのかもしれません。しかしこの時期既にデューラーは自らの作品制作を絞り込んで、理論的著述に精力を傾けていました。『ハッレ聖遺物書』の木版挿図の作者はヴォルフ・トラウトというニュルンベルク出身の画家であったと思われますが、この画家はデューラーの工房に属していたこともあり、あるいはデューラーが自らの代わりとしてアルブレヒトに推薦したのかもしれません(註9)

卓上噴水から聖遺物容器へ

 ところで、『ハッレ聖遺物書』中に図示された様々な聖遺物容器の中に、デューラーが関わりを持った可能性の高い容器が一点認められます。イエルク・ラスムッセンという美術史家が注目したのは、「幾つかの像を伴なった銀製鍍金のタベルナクルム」というタイトルが付けられた容器で、印刷本『ハッレ聖遺物書』(1520年)にも(図12)、またその後アルブレヒトが作らせた豪華写本版『ハッレ聖遺物書』(1526/27年)にも(図13)収録されています(註10)。ラスムッセンは、この容器が1510年ごろにデューラーによって制作された素描『大卓上噴水』(図14)の上部と酷似することを指摘しました。確かに一部の人物小像を除いて、構造が酷似しています。また「タベルナクルム」の円盤状の底部には三か所に円形の小さな孔が認められ、これがかつて卓上噴水として用いられていたものの一部であったことを強く示唆しています(註11)。つまり、いつの段階かにデューラーの構想により制作された卓上噴水が、聖遺物容器に仕立てかえられた可能性がうかがえるのです。
  卓上噴水は中世の宮廷文化の中で、飲み物を冷やしたり、食器類を洗浄したりするための他、水やワインを機械仕掛けで注ぎ出し、人々の感興や驚嘆を誘うものとして好まれていました。デューラーの時代にも君公の宮廷や裕福な商人の邸宅等での需要はありました。この卓上噴水を注文したのがアルブレヒトの前任者エルンスト・フォン・ヴェッティンであったことはほぼ確実で、1513年の彼の遺産目録中の「銀製の卓上噴水」がこれを指すものと思われます。デューラーの素描の制作時期についてはやや議論があり、1495年ごろから1500年ごろと諸説ありますが、いずれにせよ、デューラーの原案をニュルンベルクの金細工師が実際に卓上噴水に仕上げたものが、エルンストの宮廷に納入されたものと思われます。作者については金細工師で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世からも仕事を請け負っていた父アルブレヒト・デューラーの名は、デューラーの妻アグネスの父で、やはり金細工師であったハンス・フライの名が取り沙汰されもしますが、確証はないのです。
 なおデューラーが、細部に亘って卓上噴水のメカニズムを認識していた節があることが指摘されています。ヘレニズム時代に様々な自動機械発明で知られたアレクサンドリアのヘロンにまで系譜をさかのぼりうる自動機械のメカニズムに関する知識を、1471年から75年にかけてニュルンベルクに滞在した科学者ヨハンネス・ミュラー(通称レギオモンタヌス)を通じて、ニュルンベルクの金細工師たちがその知識を吸収し得たのではないかと推測されているのです(註12)。この種の卓上噴水は、その複雑な機械仕掛けという性格上、メンテナンスが難しいものであったと思われます。エルンスト・フォン・ヴェッティンの遺産目録にはなお「銀製の噴水」とあることからみて、恐らくアルブレヒトによって聖遺物容器に改造されたものと推測されますが、これは卓上噴水としての機能が不全となり、余人をもっては修復し難かったためだったかもしれません。
 はたして、アルブレヒトは、自らが聖遺物容器に改造させた卓上噴水が、もともとアルブレヒト・デューラーの下絵に基づくものであることを認識していたのでしょうか。確たる手がかりはないものの、銅版画肖像を重ねて注文したことからもわかるように、アルブレヒトがデューラーに大いに関心を寄せていたのは明らかで、卓上噴水を廃棄することなく、自らが誇る聖遺物コレクションを荘厳する手段として再利用したことからみて、その原案がデューラーによるものであったことを知っていたものと考えたくもなります。1522/23年頃には、アルブレヒトは自らの聖遺物コレクションを荘厳する一環として、デューラーに作品を注文してもいます。

デューラーによる板絵『悲しみの人』

 アルブレヒトは、膨大な聖遺物コレクションの保管と呈示の新たな場として、既存の聖ペテロ教会を改造し、「新参事会教会」(図15)として1523年に改めて献堂式を挙げました。アルブレヒトはこの教会の装飾にも力を入れ、当代ドイツにおける傑出した美術家たちに絵画・彫刻を発注しています。クラーナハ工房による17点もの多翼式祭壇画、グリューネヴァルトの『エラスムスとマウリティウスの出会い』、マインツの彫刻家ペーター・シュロによるキリスト、聖母や12使徒らの彫像群に加えて、アルブレヒトはデューラーにも板絵を描かせました(註13)
 デューラーがアルブレヒトのために制作した『悲しみの人としてのキリスト』(図16)のオリジナルは、残念ながら現存していませんが、忠実な模写と思われるものが複数遺されています(註14)。描かれているのは「悲しみの人」と呼ばれるタイプのキリスト像で、死後のキリストでありながら、目を開け、体を起こしているという特異な図像です。「生ける死者」とも言うべきこのような特殊な図像は、14世紀半ばあたりから徐々に普及し、中世末期のドイツでは一大流行を絵画においても、彫刻においてもみることになりました。デューラー自身も、現在カールスルーエにある最初期の板絵(図17)の一つにおいて、すでにこの主題を取り上げています(註15)
 しかし、アルブレヒトのために描いたデューラーが描いたこの『悲しみの人』は、画家自身の扮装肖像画であった可能性があるという点でも注目に値します。『1500年の自画像』(図18)におけるように、デューラーはしばしばキリストの面貌に自らの顔を嵌め込む傾向を有していました(註16)。この絵の下絵と思われる素描(図19)(ブレーメン旧蔵、ソ連軍により接収されて後、行方不明)では、両手と脇腹の傷を除いて、ほとんど同一の姿勢をした人物が描かれており、その面貌は明らかにデューラーのものとなっています(註17)。ここではデューラーが明らかに「悲しみの人」としてのキリストに扮していると思われます。アルブレヒトのための『エッケ・ホモ』においては、コピーから推測する限り、キリストの顔とデューラーのそれとの相似は意識的に弱められているようにも見えますが、少なくとも画家自身は重ね合わせを意識していたことでしょう。アルブレヒトが、この『エッケ・ホモ』をデューラーによる扮装自画像として認識していたか否かを知る手がかりはありませんが、扮装肖像マニアとも言うべきアルブレヒトに、デューラーが隠微ながらも扮装自画像を納入したとすれば、なかなか面白いことと言えるでしょう。

『悲しみの人としてのキリスト』、ポメルスフェルデン城 『悲しみの人としてのキリスト』、カールスルーエ、バーデン州立博物館

(図16)アルブレヒト・デューラーに基づくコピー、『悲しみの人としてのキリスト』、ポメルスフェルデン城

(図17)アルブレヒト・デューラー、『悲しみの人としてのキリスト』、カールスルーエ、バーデン州立博物館、1493/94年頃

アルブレヒト・デューラー アルブレヒト・デューラー、素描『悲しみの人としての自画像』

(図18)アルブレヒト・デューラー、『1500年の自画像』、ミュンヘン、アルテピナコテク

(図19)アルブレヒト・デューラー、素描『悲しみの人としての自画像』(Winkler, Nr.886)、1522年、ブレーメン・クンストハッレ旧蔵、ソ連軍により接収後行方不明


キリスト像型聖遺物容器と昇天劇

『ハッレ聖遺物書』

(図20) 装飾写本版『ハッレ聖遺物書』から「救世主キリスト像型聖遺物容器」(アシャッフェンベルク図書館写本Ms.14, Fol.97v.)

 アルブレヒトのコレクションにはもう一つ、デューラーの顔をしたキリスト像が存在した可能性があります。豪華写本版『ハッレ聖遺物書』中に収載されている「大きなキリスト像型聖遺物容器」(図20)について、先にも言及したドイツの美術史家ラスムッセンは興味深い指摘を行なっています。聖遺物が20点以上もその台座に納められているというこのキリスト像の面貌が、デューラーを思わせなくもないというのです(註18)。実際、ハッレの聖遺物コレクションに多数含まれている人物像型聖遺物容器の多くは、ペーター・ミュルナーをはじめとするニュルンベルクの金細工師が制作したもので、彼らはデューラーがしばしば好んだキリストとの重ね合わせを熟知していた可能性はあるでしょう。ちなみに、このキリスト像型聖遺物容器は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がニュルンベルクの金細工師に註文し、アルブレヒトの前任者エルンスト・フォン・ヴェッティンに寄贈したものであることが、台座の紋章から判明しています。
 このデューラーとの相似を感じさせなくもないキリスト像型聖遺物容器は、また、アルブレヒトがその造営に精力を費やした新参事会教会で執り行われた、ある重要な儀式においても重要な役割を担っていました。キリスト昇天の祝日に新参事会教会内で執り行われた昇天劇の際、このキリスト像型聖遺物容器は主役として、やはり聖遺物コレクションに属する聖母像型聖遺物容器(図21)や、12使徒の聖人像型聖遺物容器(図22)が見守る中、天上の開口部(「天の穴Himmelloch」と呼ばれていました)から吊るされた綱につながれ、教会の屋根裏へと引き上げられていたのです(註19)。こうした人物像を用いての教会内での儀式は、中世末期ドイツ各地で行われていたようですが、人物像型聖遺物容器を用いての儀式は他に類例のないものでした。聖遺物は聖人とほぼ同一視され、聖人の臨在(現前)を保証するものと信じられていたことを考慮すると、アルブレヒトの新参事会教会における聖遺物容器を用いての昇天儀式は、当時の人々にとって極めて臨場感を備えた迫力のあるものと捉えられたことでしょう。マルティン・ルターがアルブレヒトを「ハッレの偶像Abgott」と指弾した背景には、このような聖遺物と造形物を活用した前例のない行事への、本来のキリスト教の教義に照らしての批判があったのです。もし本当にこのキリスト像型聖遺物容器がデューラーの面貌を呈していたと知ったなら、ルターの怒りは一層激しいものになったかもしれません。
 とはいえ、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクによる造形作品の想像力と創意工夫に満ちた多様な活用が、当時のドイツ美術の発展に果たした役割は無視できないものがあります。宗教改革の普及とともに、ドイツにおいて美術は活動の場を狭められてゆくことになりますが、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクはルネサンス期のドイツ美術に最後の活動の場を与えた君主としても記憶されるべきでしょう。

『ハッレ聖遺物書』 『ハッレ聖遺物書』

(図21)装飾写本版『ハッレ聖遺物書』から「聖母子像型聖遺物容器」(同写本Fol.151v.)

(図22)装飾写本版『ハッレ聖遺物書』から「使徒聖ペテロ像型聖遺物容器」(同写本Fol.196v.)


(註1) アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクについてはPaul Redlcih, Cardinal Albrecht von Brandenburg und Neue Stift zu Halle 1520-1541, Mainz 1899; Horst Reber (Hg.), Albrecht von Brandenburg: Kurfürst Erzkanzler Kardinal 1490-1541,Mainz 1990; Friedhelm Jürgensmeier (Hg.), Erzbischof Albrecht von Brandenburg (1490-1545): Ein Kirchen- und Reichsfürst der frühen Neuzeit, Frankfurt a.M. 1991といった基本的文献に加えて、近年重要な展覧会ないしシンポジウムが幾つか開かれ、最新の研究成果が公刊されています(Cf. Andreas Tacke (Hg.), Kontinuität und Zäsur : Ernst von Wettin und Albrecht von Brandenburg, Göttingen : Wallstein, 2005; Der Kardinal Albrecht von Brandenburg: Renaissancefürst und Mäzen, Regensburg 2006; Cranach in Exil: Aschaffenburg um 1540: Zuflucht Schatzkammer Residenz, Regensburg 2007)。邦語文献としては海津忠雄、『肖像画のイコノロジー−エラスムスの肖像の研究』、多賀出版、1987年や拙稿、「地獄の枢機卿」アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクによる美術振興:聖遺物崇敬と扮装肖像の文脈から」、『西洋美術研究』第12号(2006年)等があります。

(註2) デューラーによる一連の銅版肖像画についてはPeter-Klaus Schuster、Überleben im Bild: Bemerkungen zum humanistischen Bildnis der Lutherzeit, in: Köpfe der Lutherzeit, München 1983, pp.18-25が簡便。

(註3) Rainer Schoch, Matthias Mende und Anna Scherbaum(Hg.), Albrecht Dürer : das druckgraphische Werk, Bd.1, Munchen 2001, pp.221-223.

(註4)  Rainer Schoch et al., op.cit, pp.233-235.

(註5)  Hans Rupprich, Albrecht Dürer. Schriftlicher Nachlass, Bd.1, Berlin 1956, pp.85-87. 邦訳がデューラー、『自伝と書簡』(前川誠郎訳)、岩波文庫、2009年に収録されています。なお本年1月、我が国のデューラー研究を先駆的に推進された前川誠郎先生が89歳で逝去されました。この場をお借りして謹んで哀悼の意を表させていただきます。

(註6) 印刷本版についてはHeinrich L.Nickel(Hg.), Das Hallesche Heiltumbuch von 1520, Halle 2001を、豪華写本版についてはRudolf Berliner/P.H.Halm, Das Hallisches Heiltum, Berlin 1931およびDas Halle’sche Heiltum: Reliquienkult und Goldschmiedekunst der Frührenaissance in Deutschland(CD-rom版)を参照。なおヴィッテンベルク聖遺物書との比較についてはKerstin Merkel, Die Reliquien von Halle und Wittenberg: Ihre Heiltumsbücher und Inszenierung, in: Andreas Tacke(Hg.), Cranach auf Vorrat: Die Erlanger Handzeichnungen der Universitätsbibliothek, München 1994, pp.37-50を参照。また拙稿、『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世における聖性と造形』(講談社叢書メチエ、2009年)の第6章もご参照ください。

(註7) Livia Cardenas, Friedrich der Weise und das Wittenberger Heiltumsbuch: Mediale Repräsentation zwischen Mittelalter und Neuzeit, Berlin 2002; 拙稿、「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の美術パトロネージについての一考察:ヴィッテンベルクの聖遺物カタログを中心として」、『鹿島美術研究』22(2005年)、pp.266-278.

(註8)  Ernst von Wettinについては最近初めて包括的な研究が公刊されました(Cf. Markus L. Mock, Kunst unter Ernst von Sachsen, St.Petersburg 2007, in part. pp.85-92)。

(註9)  Nickel,op.cit., p.292ff.

(註10) Jörg Rasmussen, Untersuchungen zum Halleschen Heiltum des Kardinals Albrecht von Brandenburg I, in: Münchner Jahrbuch der bildenden Kunst, 3.F., Bd.27(1976), pp.75-78.

(註11) デューラーの手になる噴水素描についての詳細は、Hilderard Wiewelhove, Tischbrunnen: Forschungen zur europäischen Tafelkultur, Berlin 2002pp.62-70を参照。

(註12) Wiewelhove, op.cit., p.68.

(註13)  新参事会教会の装飾プログラムについてはAndreas Tacke, Der Katholische Cranach: Zu zwei Grossaufträgen von Lucas Cranach d.  Ä, Simon Frank und der Cranach Werkstatt (1520-1540), Mainz 1992, pp.16-169; 秋山聰、『西洋美術研究』12号所収前掲論文、pp.28-33.

(註14) Fedja Anzelewsky, Albrecht Dürer. Das malerische Werk, Berlin 1991, pp.270-273 Kat.Nr.170K; Der Kardinal Albrecht von Brandenburg…cit., pp.165-169.

(註15) Anzelewsky, op.cit, pp.122-123 Kat.Nr.9.

(註16) Anzelewsky, op.cit,

(註17) Bernhard Decker, Dürer-Nachahmungen und Kunstgeschichte: ein Problem am Rande?, in: Dürers Verwandlung in der Skulptur zwischen Renaissance und Barock, Frankfurt a.M. 1981/82, pp.385-489, in part. p.413ff.

(註18) Rasmussen, op.cit, p.82f.

(註19) Hans-Joachim Krause, "Imago ascensionis" und "Himmelhoch": Zum "Bild"-Gebrauch in der spätmittelalterlichen Liturgie, in: Friedrich Möbius und Ernst Schubert (Hg.), Skulptur des Mittelalters : Funktion und Gestalt, Weimar 1987, pp. 255-279.

付記:本稿の内容は部分的に、科学研究費補助金基盤研究(B)「像(イメージ)の生動性についての比較美術史的研究」(平成19−21年度)の成果の一部によるものです。

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