足跡と足裏の図像学 〜デューラーの足裏への執着をめぐる一試論〜

デューラーの木版画連作≪小受難伝≫

デューラー、木版画「アンナスの前のキリスト」、連作『小受難伝』の一、1508/9年ごろ

(図1)デューラー、木版画「アンナスの前のキリスト」、連作『小受難伝』の一、1508/9年ごろ


デューラー、木版画「十字架降下」連作『小受難伝』の一、1509/10年ごろ

(図2)デューラー、木版画「十字架降下」連作『小受難伝』の一、1509/10年ごろ


デューラー、木版画「キリスト昇天」、連作『小受難伝』の一、1510年ごろ

(図3)デューラー、木版画「キリスト昇天」、連作『小受難伝』の一、1510年ごろ

 デューラーによるキリストの生涯を題材とした連作版画の中には、時に見る者を驚かせるような大胆な構図のものが見られます。何よりも特徴的なのは、主人公であるはずのキリストが必ずしも画面の中で中心的役割を果たしてはいないという点でしょう。とりわけ作品枚数の多い木版画連作≪小受難伝≫(1508-11年)などでは、この傾向が顕著です(註1)。例えば「アンナスの前のキリスト」(図1)では、我々は打擲されながら連行されるキリストの後頭部しか見ることができません。「十字架降下」(図2)においては、息絶えたキリストの上半身が、その遺体を降ろそうとする男性の背中に力なく覆いかぶさっており、やはりその後頭部しか見ることができません。リアリティという点から見れば、優れて巧みな表現と言えるでしょうが、キリストの顔が満足に描かれないなどということは、単独で制作される作品ではおよそ考えられないことでした。キリストを主人公とする絵を求める人々は、そこにその気高い容貌や優美な身体を十全に鑑賞することを期待していたでしょうから、後頭部や後ろ姿だけなどという表現に満足するはずはありませんでした。しかし、複数の場面からなる連作の場合は、多翼式祭壇画や壁画、あるいは写本挿絵等と同様、時にキリストが中心的役割を果たさない情景表現も許容されえました。なぜなら、連続して展開する画面を鑑賞する限りにおいて、たとえ一場面で主人公がはっきりと見えなくとも、人々はみずからの視覚体験の中で、その欠落を容易に補うことができたからです。デューラーは、こうした連作特有の条件を大いに活用して、時に斬新で実験的な構図を生みだしたのです。
 デューラーの木版画連作≪小受難伝≫中、私たちを最も驚かせる構図の一つが、恐らく「キリスト昇天」(1511年)(図3)でしょう(註2)。本来人間には不可知、不可視な高次の存在である神が、イエス・キリストという形で、一時的に「受肉」、つまり人間の身体に宿り、地上で活動したとキリスト教は考えます。そして人間を原罪から救済するために磔刑に処せられたイエスは、神であるが故に、通常の人間にはありえない復活を遂げ、40日ほどの間に母や弟子たちの許に姿を現した後に、彼らの見守る中、雲間にかき消えるように昇天したとされます。聖書にはその場所は明記されていませんが、次第にオリーブ山だと信じられるようになりました。「キリスト昇天」は、一時的に人として生きた神が、人の世界から永遠に別離し、神の世界に戻るという極めて重要な画期を為した出来事を主題としていますから、元来は祝典的に荘厳に表現されていました。ところがデューラーは、ここで人々が驚嘆する中、昇天するキリストの両足しか描いていません。確かに、聖母や弟子たちが抱いたであろう喪失感を暗示するには、二度と地上でまみえることのないキリストの身体の大半が、すでに視野の外に去ってしまっているこのような表現は的確だとも思われますし、使徒行伝中の「雲間にかき消えた」という記述に忠実とも言えるでしょう。また画面の小ささ(12.6p×9.7p)を考慮すれば、このような表現が優れて巧みな解決方法であるようにも感じられます。しかしそれにしても、場面の主役たるキリストを両足先だけですませるとは、何とも大胆なことに思われます。

キリストの足跡

 さらにこの版画をよく見ると、キリストが直前まで立っていたとおぼしき大地には、くっきりと足跡が遺されています。キリストの足跡について、聖書には特段の記述がありません(註3)。しかし、エルサレムがローマ帝国傘下に入った324年以降、キリストの人性が強調されるようになると、足跡こそは神が地上に一時的にせよ存在した格好の証とみなされるようになりました。エウセビウスの『コンスタンティヌス大帝伝』によると、既に母后ヘレナもキリストの足跡を篤く崇敬していたといいます(註4)。キリスト昇天の場所と信じられていたオリーブ山の山頂には、378年にローマ人女性ポエミアにより教会堂が建立されましたが(註5)、その中心にはキリストの足跡が遺されていると信じられていました。この足跡に関する現存最古の文献史料はノラのパウリヌスがスルピキウス・セウェルスに宛てた書簡(401/402年頃)で、そこには、オリーブ山の昇天の場所には砂上にキリストの足跡が残っており、その上をどんなに舗装しようとしても果たせなかったと記されています(註6)。砂上の足跡の上に石板を嵌めようとすると、それが作業する者の顔に跳ね返ってきてしまうというのです。スルピキウスはさらにその著書『年代記』(402年頃)において、巡礼たちが記念に持ち帰るためにどんなに足跡の周辺の土を取り去っても、足跡の輪郭が失われることはなかったとも記しています(註7)。中世後期に広く読まれた『黄金伝説』(1263−67年)におけるヤコブス・デ・ヴォラギネによるキリストの足跡についての記述も専ら、スルピキウスに依拠したものでした(註8)

ベーダ著『聖地について』写本(M.lat.2321)より昇天教会の平面図、10世紀、パリ国立図書館

(図4)ベーダ著『聖地について』写本(M.lat.2321)より昇天教会の平面図、10世紀、パリ国立図書館

 614年にササン朝ペルシャによるエルサレム征服の際に一旦破壊された後、629年に東ローマ皇帝ヘラクレイオスにより再建された昇天教会についての詳細な記述は、683年ごろにアイルランドの修道院長アダムナヌスにより著わされた『聖地について』中にみられます(註9)。具体的な情報を680年ごろにエルサレムを訪れたガリア司教アルクルフに依拠しているアダムナヌスによると、昇天教会は足跡を中心にした円形の集中式建造物で、足跡のある中央部分には、あたかもキリスト昇天の道筋を残すかのように屋根が架けられておらず、その周囲に同心円状に三重の周歩廊が設けられていたようです。恐らくアダムナヌスに依拠しつつ、ベーダも『聖地について』(702年ごろ)において、昇天教会の構造について述べていますが、その写本には足跡を中心に同心円状の構造をした教会の平面図(図4)が挿絵として描き込まれています(註10)
 この後11世紀初頭に、トルコにより昇天教会は再び取り壊されたようですが、1099年に十字軍がエルサレムに入城した際、これまでのような砂上の足跡ではなく、キリストが昇天の際にその上に立っていたとされる岩が発見され、昇天教会も八角堂の構造を持つ教会堂として再建されます(註11)。当初はキリストの足跡についての記述は皆無で、キリストが立ったとされる岩は、キリストの聖なる身体が触れることによって聖性を帯びた、いわゆる「接触型聖遺物contact relics」として崇敬を集めていたようです(註12)。ところが1140年に聖地巡礼を行なったあるアイルランド人の記録によると、岩の上には明らかにキリストの足跡が認められたと言います(註13)。接触型聖遺物であった岩が、キリストの足跡というイメージを帯びるにいたる背景には、昇天教会からほど遠からぬ所に建つイスラム教の「岩のドーム」で、マホメットの足跡が残ると信じられた岩が篤い崇敬を集めていた状況があったものと推測されています(註14)。接触型聖遺物は、それ自体神聖なる人物との接触により聖性を帯びた事物として尊重されますが、そこに、よりわかりやすくイメージが施されていれば、一層篤く崇敬を集めえたことは、西欧におけるいわゆる「ウェロニカの聖顔布」の事例からも明らかです。十字架を担いながら、ゴルゴタの丘まで歩かされたキリストの汗と血にまみれた顔をウェロニカが布で拭いたところ、その布にキリストの顔が転写されたという伝説は、12世紀以降、西欧で急速な広がりを見せました。これは従来、ビザンティンとは異なり聖画像に懐疑的であった西欧のキリスト教徒にとって、聖画像を受け入れる抵抗感を失わせる上で、極めて効果的な手段となったのです。というのも「ウェロニカの聖顔布」はキリストの真正な顔を保証する「イメージ」であると同時に、キリストの顔に触れた布であるが故に「接触型聖遺物」でもあったからです。このため、聖画像よりも聖遺物に、はるかに比重をおいた信心行為を尊重してきた西欧キリスト教にとって、「ウェロニカの聖顔布」は、聖画像を認容する上で極めて大きな意義を有することになったのです。ちなみに「ウェロニカの聖顔布」に関する史料も、当初はキリストの顔というイメージには言及しておらず、一旦「接触型聖遺物」として受容された後、イメージを有する聖遺物、いわゆる「イメージ聖遺物image-relics」(ハンス・ベルティンクの用語)へと変貌しており、この点も、昇天教会における、キリストの足跡をとどめる岩と共通しています。キリストの足跡を遺す岩は、キリストの顔の痕跡を遺す「ウェロニカの聖顔布」のいわば等価物であり、人としてのキリストが最後に地上に遺した刻印として、信徒を否応なく感動させうる聖遺物であるばかりではなく、誰が見ても容易に理解できるイメージを備えた聖遺物として人気を集めることになったのです(註15)

師匠と弟子の競合:デューラーとショイフェライン

ショイフェライン、木版画「キリスト昇天」、ウルリヒ・ピンダーの『キリスト受難の鏡』のための挿絵連作の一、1507年

(図5)ショイフェライン、木版画「キリスト昇天」、ウルリヒ・ピンダーの『キリスト受難の鏡』のための挿絵連作の一、1507年

 ところで、デューラーによる「キリスト昇天」(図3参照)に四年ほど先立って弟子のハンス・ショイフェライン(あるいはショイフェリン)も木版画による「キリスト昇天」(図5)を制作しています(註16)が、両作品は極めて似通っています。どちらも書物の挿絵としての受難伝連作中の作品で、「キリスト昇天」以外の諸場面も、構図という点では類似点が多く認められることから、相互の影響関係が議論されてきました。デューラー研究者として名高いフリードリヒ・ヴィンクラーは、二人の関係をルーベンスとファン・ダイクとのそれ、つまり師弟間の生産的な相互影響関係と評しています(註17)。ハンス・ショイフェランは、ハンス・バルドゥンク・グリーンやハンス・フォン・クルムバッハ等と並んで、デューラーの高弟として知られる画家で、1505年の初夏から1507年初頭にかけてヴェネツィアに赴いたデューラーの代わりに、デューラーの妻アグネスと協力しつつ工房を切り盛りした一人でもありました。折しもデューラーがイタリアに赴いていた1505年の秋に、ニュルンベルクの医師にして著述家ウルリヒ・ピンダーがキリストの受難に関して著わした啓蒙書『キリストの受難の鏡Speculum passionis Christi』のための挿絵の担当者を探しており、ショイフェラインやバルドゥンク・グリーンら留守を預かっていた弟子たちが木版画を制作することとなりました(註18)。キリスト受難に関わる諸場面を担当したのがショイフェラインで、総計29場面を描いています。一見して、ショイフェラインによる挿絵は、かなり拙速に粗く仕上げられており、デューラーによる挿絵の方が数段洗練されたものとなっていることは明らかですが、制作時期を見る限り、デューラーがその構図の多くをショイフェラインの着想に負っていた可能性は残ります。しかし、「キリスト昇天」の構図は、我々の眼には実に斬新に映りもしますが、実は数多くの類似構図による先行作例が存在することが判明しており、どうやら師弟ともに当時広く知られていた図像的伝統に忠実に沿っていたようなのです。

「キリスト昇天」の先行作例

『ベルンヴァルトの福音書』の「ヨハネ福音書」扉絵、12世紀初頭、ヒルデスハイム、大聖堂美術館

(図6)『ベルンヴァルトの福音書』の「ヨハネ福音書」扉絵、12世紀初頭、ヒルデスハイム、大聖堂美術館


フルダ、ヘッセン州立図書館所蔵写本(Hs.Aa35, Fol.94v.)より「キリスト昇天」

(図7)フルダ、ヘッセン州立図書館所蔵写本(Hs.Aa35, Fol.94v.)より「キリスト昇天」


ニコラ・ド・ヴェルダン、エマイユ装飾「キリスト昇天」、クロスターノイブルクの説教壇前飾りの一場面、1180 年ごろ、クロスターノイブルク修道院

(図8)ニコラ・ド・ヴェルダン、エマイユ装飾「キリスト昇天」、クロスターノイブルクの説教壇前飾りの一場面、1180 年ごろ、クロスターノイブルク修道院


エマイユ装飾「キリスト昇天」、1180年ごろ、ヒルデスハイム、大聖堂美術館

(図9)エマイユ装飾「キリスト昇天」、1180年ごろ、ヒルデスハイム、大聖堂美術館

 元来、「キリスト昇天」の場面には、初期キリスト教時代からキリストの全身が表現されるのが一般的でしたが、1000年前後あたりから、イギリスを含めたアルプス以北において、キリストの身体が天上の彼方に消えかかっている作例が、主として写本挿絵の分野で登場します(註19)。最初期の作例としては、キリストの頭部が既に消えているもの(図6)や、下半身のみが見えているもの(図7)など、11世紀初頭の作例が挙げられます。この種の消えかかるキリストという図像は、専らアルプスの北側で好まれたようで、12、13世紀には、各種写本中の挿絵としてはもとより、聖遺物容器や説教壇におけるエマイユ等による装飾(図8、9)、断食布、教会の柱頭や、やがて更には洗礼盤(図10)や教会扉口上のティンパヌム浮彫(図11)などにも認められるようになります。13世紀前半になると、昇天するキリスト直下の大地に、その足跡が描かれるようにもなります(図12、13、14)。とりわけ写本装飾においては、両足のみ残して雲間に姿を消したキリストと足跡を組み合わせた作例は、13世紀以降枚挙に暇がありません。このように足跡の表現が付随するようになる要因には、直接には十字軍による足跡のついた岩の発見や、13世紀後半以降は、西欧で広く読まれた前述の『黄金伝説』の影響が指摘されています(註20)。14世紀に入ると更に祭壇画等板絵にも足跡を伴なった「キリスト昇天」が好んで描かれだします。これらは専らキリストの全身がなお見えるタイプ(図15、16)と、キリストの下半身もしくは膝下しか見えないタイプ(図17、18、19)に大別されます。なお全身が見える場合でも、スペースの問題もあってか、面白いことに弟子たちに比べてキリストの方が小さく描かれています。西洋中世美術では宗教上重要な人物の方が大きく描かれるのが一般的ですが、「キリスト昇天」の場合、キリストが天上へと遠ざかっていく様を示唆しようとしてか、キリストの方が遥か小さく表現されているのです。さらに15世紀半ばになると、新たなメディアとして急速に広がっていった版画の分野でも、キリストの足跡を伴う作例が盛んに制作されました。しかしこれら木版やメタルカットによる版画では、版型が小さいこともあってか、キリストは両足先のみ表現されるのが専らでした(図20、21、22)(註21)。また中世末期に流行した、旧約聖書をキリストの生涯の予兆とみる「予型論」の手引書(註22)でも、この種の「キリスト昇天」が好んで描かれました(図23、24)。こうしてみると16世紀初頭のドイツにおいて、足跡を残しながら昇天するキリストの足先だけが見えるという「キリスト昇天」図像はありふれていたと言っても過言ではないでしょう。デューラーにしてもショイフェラインにしても、当時教会内の祭壇画や、安価な版画によって、容易に目にしえたこのタイプの伝統的な昇天図像に依拠していたことは疑いえないようです。

ヴュルツブルク大聖堂洗礼盤、1279年

(図10)ヴュルツブルク大聖堂洗礼盤、1279年

ボルドー大聖堂北袖廊扉口ティンパヌム、14世紀初頭

(図11)ボルドー大聖堂北袖廊扉口ティンパヌム、14世紀初頭

『テューリンゲン方伯の詩篇』写本より「キリスト昇天」、1211/13年ごろ、シュットットガルト、ヴュルテンベルク州立図書館所蔵写本(Cd.HB II 24, fol.109v.)

(図12)『テューリンゲン方伯の詩篇』写本より「キリスト昇天」、1211/13年ごろ、シュットットガルト、ヴュルテンベルク州立図書館所蔵写本(Cd.HB II 24, fol.109v.)

ベルリン、プロイセン州立図書館旧蔵写本(Ms.theol.lat.4 31, fol.115v.)より「キリスト昇天」、1245年ごろ

(図13)ベルリン、プロイセン州立図書館旧蔵写本(Ms.theol.lat.4 31, fol.115v.)より「キリスト昇天」、1245年ごろ

聖スイトベルトの聖遺物箱上の装飾浮彫りから「キリスト昇天」、1300年ごろ、デュッセルドルフ=カイザーヴェルト、カイザーヴェルト修道院

(図14)聖スイトベルトの聖遺物箱上の装飾浮彫りから「キリスト昇天」、1300年ごろ、デュッセルドルフ=カイザーヴェルト、カイザーヴェルト修道院


コンラート・フォン・ゼースト、『ニーダーヴィルドゥンゲン祭壇画』中の「キリスト昇天」、1403年、バート・ヴィルドゥンゲン、都市教会

(図15)コンラート・フォン・ゼースト、『ニーダーヴィルドゥンゲン祭壇画』中の「キリスト昇天」、1403年、バート・ヴィルドゥンゲン、都市教会

聖ラウレンツの画家、祭壇画の部分「キリスト昇天」、1420年ごろ、ケルン、ヴァルラフ美術館

(図16)聖ラウレンツの画家、祭壇画の部分「キリスト昇天」、1420年ごろ、ケルン、ヴァルラフ美術館

ケルン派、祭壇画の部分「キリスト昇天」、1330年ごろ、ケルン、ヴァルラフ美術館

(図17)ケルン派、祭壇画の部分「キリスト昇天」、1330年ごろ、ケルン、ヴァルラフ美術館

『大フリートベルガー祭壇画』中の「キリスト昇天」、1390年ごろ、ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館

(図18)『大フリートベルガー祭壇画』中の「キリスト昇天」、1390年ごろ、ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館

ハンス・メムリンク、三連祭壇画の右翼画「キリスト昇天」、1485/90年ごろ、パリ、ルーヴル美術館

(図19)ハンス・メムリンク、三連祭壇画の右翼画「キリスト昇天」、1485/90年ごろ、パリ、ルーヴル美術館


木版画「キリスト昇天」(手彩色)、15世紀半ば

(図20)木版画「キリスト昇天」(手彩色)、15世紀半ば

木版画「キリスト昇天」(手彩色)、15世紀半ば

(図21)木版画「キリスト昇天」(手彩色)、15世紀半ば

イスラエル・ファン・メッケネム、木版画「キリスト昇天」、1478年ごろ

(図22)イスラエル・ファン・メッケネム、木版画「キリスト昇天」、1478年ごろ

『貧者の聖書』写本から「キリスト昇天」に関わる予型論についての紙葉

(図23)『貧者の聖書』写本から「キリスト昇天」に関わる予型論についての紙葉

『人類救済の鏡』版本から「キリスト昇天」に関わる予型論についての紙葉

(図24)『人類救済の鏡』版本から「キリスト昇天」に関わる予型論についての紙葉


デューラーによる「キリスト昇天」の特徴

昇天儀式用のキリスト像、菩提樹材による木彫、高さ67p、幅21p、奥行18p、1480年ごろ、ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館

(図25)昇天儀式用のキリスト像、菩提樹材による木彫、高さ67p、幅21p、奥行18p、1480年ごろ、ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館


図25の台座底部

(図26)図25の台座底部


ジャン・ド・ランブール、『ビブル・モラリゼ(教訓化聖書)』中の挿絵「キリスト昇天」、1403 年ごろ、パリ、国立図書館所蔵写本(ms.fr.166, fol.14)

(図27)ジャン・ド・ランブール、『ビブル・モラリゼ(教訓化聖書)』中の挿絵「キリスト昇天」、1403 年ごろ、パリ、国立図書館所蔵写本(ms.fr.166, fol.14)


1784年刊行のプロテスタント側からのカトリック批判の書物中の銅版挿絵

(図28)1784年刊行のプロテスタント側からのカトリック批判の書物中の銅版挿絵

 「キリスト昇天」において、デューラーがある程度ショイフェラインによる挿絵に影響を受けたことは間違いないでしょう。しかし、仔細に観察すると、ショイフェラインの作品(図5参照)は、かなり粗雑なもので、例えばキリストの足跡などは、まるでキリストが足を交差させて立っていたとしか思えないようないい加減な表現となっています。もちろんデューラー作品(図3参照)においては、人体の構造に矛盾しない、実体感のある足跡となっていることは一目瞭然と言ってよいでしょう。師のデューラーは、「小受難伝連作」の制作にあたって、弟子ショイフェラインによる先行作品から直接の影響を被ったかもしれませんが、他の諸場面においてと同様に、ここでも弟子の至らぬ個所では巧みに修正を加えています。まるで自らの留守中に弟子が行なった些か手抜きと言わざるを得ないような仕事をたしなめているような観すらあります。さらに「キリスト昇天」において、デューラーはキリストの足跡を修正するばかりでなく、キリストを見送る弟子たちの配置や身ぶりに変更を加え、キリストによる最後の奇跡に立ち会った彼らの驚きを、一層強調しています。ショイフェラインは、使徒の何人かに手を合わさせて礼拝の姿勢を取らせていますが、デューラーはむしろ、使徒たちが驚きのあまり手を合わせて祈ることを失念している様子を描き出しているのです。またショイフェラインにおいては、手前右端に配置された聖ペテロは左足裏しか露呈していませんが、デューラーはこの使徒をより若い人物に変え、その両足裏を描いています。両足裏を鑑賞者に突き付けるかのように描き込んだ点に、デューラーの独創性があるように思われます。
 キリストの昇天とは、地上に人間として現れた神が人前から最終的に姿を消す場面です。それゆえ、それを見送る弟子たちの視線に最後に捉えられたのは、その足裏だったことになります。実際13世紀前半あたりからドイツ各地ではキリスト昇天の祝日に、木彫のキリスト像を教会の屋根裏へと引き上げる儀式が執り行われていました。一般の信徒にわかりやすくキリストの生涯の一齣を再現してみせる演劇的儀式は、人々の信仰心を昂揚させる効果的な手段として宗教改革が勃発するまではヨーロッパ各地で広く普及していたようで、こうした昇天儀式に用いられたとおぼしきキリスト木彫像は、かなりの数が現存しています(註23)。そうした中でとりわけ興味深いのが、ダルムシュタットのヘッセン州立博物館所蔵のキリスト像(図25)です(註24)。このキリスト像は一見すると雲をあしらった台座の上に、昇天時のキリスト像が置かれているだけのように見えますが、裏返すと、台座の裏に聖痕も生々しいキリストの足裏が彫られています(図26) 。単純に考えると、かなりの厚みのある台座の下に足裏が表現されるのは奇妙としか思われないかもしれません。しかしこの像が実際に昇天の祝日に教会の天井へと引き上げられていた様子を想像してみると、この台座の足裏表現の意味合いは容易に理解できるでしょう。聖句が唱えられ、喇叭が奏でられ、上方からホスティア(聖餅)が撒かれ、香が焚かれる中を、この像が頭部に結ばれた綱によって天井へと引き上げられる際、身廊に集まった信徒たちが最終的に目にするのは、この像の底部に表現されたキリストの足裏に他ならなかったのです。その様子は、ランブール兄弟による『ビブル・モラリゼ(教訓化聖書)』中の挿絵(註25)(図27)や、17世紀の銅版画(註26)(図28)などからうかがい知ることが出来ます。
 デューラーは、「キリスト昇天」においても、ショイフェラインとは異なり、多少ともキリストの足裏を鑑賞者にも呈示しようとしています。巧みな短縮法の活用によって我々は昇天の途上にあるキリストの足裏をわずかながらも一瞥する機会を与えられてはいます。とはいえ画中の使徒の体験を追体験しうるほどではありません。デューラーが手前右隅に配置した使徒に両足裏を露呈させたのは、恐らく、この使徒の両足裏を見ることによって、我々鑑賞者が、使徒たちによって最後に目にされたキリストの身体の部分を、より実感的に追体験できるようにするためだったように思われます。人と神の間に立ち、両者を「執り成す」ことを使命とする聖人が、この作品においてはその足裏によって、文字通り鑑賞者と神とを仲介しているのです。

ヘラ−祭壇画の余韻

デューラー、素描(通称『祈る手』)、1508年ごろ、ウィーン、アルベルティーナ版画素描館

(図29)デューラー、素描(通称『祈る手』)、1508年ごろ、ウィーン、アルベルティーナ版画素描館


デューラー、使徒の両足裏を描いた素描(『ヘラー祭壇画』のための準備素描)、1508年ごろ、ロッテルダム、ボイマンス・ファン・ボイニンヘン美術館

(図30)デューラー、使徒の両足裏を描いた素描(『ヘラー祭壇画』のための準備素描)、1508年ごろ、ロッテルダム、ボイマンス・ファン・ボイニンヘン美術館


ヨープスト・ハリッヒ、『ヘラー祭壇画』の模写、1600年ごろ、フランクフルト歴史博物館

(図31)ヨープスト・ハリッヒ、『ヘラー祭壇画』の模写、1600年ごろ、フランクフルト歴史博物館

 実はデューラーは、この作品を制作するよりも前から、ことのほか熱心に足裏の描写を研究していました。身体部位を描いたデューラーによる素描と言えば、今ではニュルンベルクのキャラクター・グッズとしても広く知られるようになった「祈る手」と通称される素描(図29)が有名ですが、これと同じく『ヘラ−祭壇画』のために描かれた下絵に左右両足裏のみを描出した印象的な素描(図30)があります(註27)。残念ながらデューラー畢生の大作であったにもかかわらず、『ヘラ−祭壇画』はバイエルン大公マクシミリアン1世により購入され、ミュンヘンに移されて後の1729年に焼失してしまったため、現在は1600年ごろにヨープスト・ハリッヒによって制作されたあまり出来の良くないコピーによって、そのよすがを偲ぶほかはありません。しかし、この素描の成果が1509年に完成したヘラ−祭壇画中の中央画面『聖母被昇天』(図31)の手前右端にひざまずく使徒の足裏として、十分に生かされたことは明らかです(註28)。事実、アルプス以北の画家列伝を初めて著したことにより「アルプス以北のヴァザーリ」とも呼ばれる画家にして著述家カレル・ファン・マンデルは、その『画家の書』(1604年)において、まだフランクフルトの教会に置かれていたヘラ−祭壇画のオリジナルを実見する機会を得、その完成度の高さを高く評価するとともに、地元ではこの両足裏の部分を切り取らせて手に入れるために大枚をはたこうとした人物すらいたことが噂になっていた、と記しているほどです(註29)。 通常、画家たちが敢えて描こうとはしないような美しからざる対象を、しかも優れた短縮法を用いる技量がなければ失敗しかねない角度から、人目を引く場所に置かれる祭壇画に描きこむという行為は、イタリアにおいて成功を収め、ドイツにおける最高の画家と自他ともに認められつつあったデューラーの自信の表れに裏打ちされてのものでした(註30)。この作品は祭壇画でしたから、祭壇の上に置かれた筈です。だとすると、この使徒の足裏は丁度祭壇に向かい祈りを捧げようとした人々の顔の辺りに位置したものと推測されるのです。『ヘラ−祭壇画』に先駆けてデューラーはヴェネツィアにおいて、敢えて美しからざる対象を作品中に描きこみ、高い再現能力を鑑賞者に印象付ける戦略を効果的に駆使しましたが、ここでも使徒の足裏によって鑑賞者を挑発するかのような「名人芸」を披歴しているとも言えるでしょう。木版画「キリスト昇天」において、デューラーが弟子ショイフェラインの作品を修正するにあたり盛り込んだ、使徒の足裏の表現は、『ヘラ−祭壇画』におけるこのような実践を活用したものと思われます。「キリスト昇天」手前右端における使徒の足裏表現には、大作『ヘラ−祭壇画』において示されたデューラーの芸術家としての気概の余韻が認められるのです。

(註1)デューラーの「小受難伝」連作については専ら以下を参照:Albrecht Dürer:Das druckgraphische Werk, Bd.2: Holzschnitte und Holzschnittfolgen, bearb.v.Rainer Schoch/Matthias Mende/Anna Scherbaum, München et al. 2002, pp.280-345; Angela Haas, “Two Devotional Manuals by Albrecht Dürer: The “Small Passion” and the “Engraved Passion”. Iconography, Context and Spirituality”, in: Zeitschrift für Kunstgeschichte, Bd.63(2000), pp.169-230; 『アルブレヒト・デューラー版画素描展−宗教・肖像・自然−』、国立西洋美術館、2010年、pp.78-99.

(註2)Albrecht Dürer: Das druckgraphische Werk…cit., p.340f.; Albrecht Dürer Woodcuts and Woodblocks, ed. By Walter L.Strauss, New York, p.398f.

(註3)キリストの足跡については主としてBernhard Kötting, “Fussspuren als Zeichen göttlicher Anwesenheit”, in: Ecclesia peregrinans: Das Gotteswerk unterwegs, Gessamelte Aufsätze, Bd.2, Münster 1988, pp.34-39; “Artikel: Fuss, Fussbekleidung”, in: Lexikon der Christlicher Ikonographie, Bd.2, Freiburg 1970, Sp.66-67; Andrea Worm, “Steine und Fussspuren Christi auf dem Ölberg: Zu zwei ungewöhnlichen Motiven bei Darstellungen der Himmelfahrt Christi”, in : Zeitschrift für Kunstgeschichte, Bd.66(2003), pp.297-320等を参照。

(註4)Eusebius, vita Constantini, 3,42; Cf. Kötting, op.cit., p.38.

(註5)Herbert Donner, Pilgerfahrt ins Heilige Land, Stuttgart 2002, p.171; Worm, op.cit., p.307.

(註6)Paulinus von Nola, Epist. 31, 4 (CSEL 29, 271f.); Cf. Kötting, op.cit., p.

(註7)Sulpicius Severus, Chronica,2, 33 (CSEL 1, 87); Cf. Kötting, op.cit., p.

(註8)Worm, op.cit., p.318f. なおヴォルムによるとリヒャルト・ベンツによる『黄金伝説』のドイツ語訳により「ジンプリキウス」として広まっている司教の名前は原文では「Sulpitius」だそうです。

(註9)Adamnanus, de locis sanctis 1,23, 1-10; Cf. John Wilkinson, Jerusalem Pilgrims before the Crusades, Warminster 2002, p.180ff.; Donner, op.cit., p.341ff. ピアツェンツァのアントニヌスは、オリーヴ山の足跡については言及していませんが、ピラトの総督宮殿跡に建立された聖ソフィア教会内に、裁判の折にキリストが立たされていた石の上に足跡が遺されていると述べています。その足跡は小振りで均整の取れた形をしており、巡礼はそれを測り写して持ち帰り、病の治癒等に役立てたということです(Antoninus, itinerarium 16; Wilkinson, op.cit., 2002, p.141; Donner, op.cit.,p.266ff.)。なおローマでは、アッピア街道沿いのクオ・ウァディス礼拝堂に、ペテロが迫害を避けてローマから脱出しようとした折に出現したキリストの足跡が遺されていることになっています(Kötting, op.cit., p.39)。

(註10)Bede, loc.sancti., VI.1-2.(Wilkinson, op.cit., p.222)

(註11)Worm, op.cit., p.310ff.

(註12)ロシア修道院長ダニエルの巡礼記には、キリストが昇天の際にその上に立った石についての記述はあるものの、足跡の痕跡については何も触れられていません(Worm, op.cit., p.312)

(註13)この巡礼はキリストが「あたかも粘土の上に足を踏み入れたかのような、14インチの大きさになる左足の跡」を見たと記しています(John Wilkinson, Jerusalem Pilgrimage 1099-1185, London 1985, p.221f.; Worm,op.cit., p.313.)。

(註14)ビアンカ・キューネルによると再建された昇天教会の構造自体が、「岩のドーム」のレプリカだとされます(Bianca Kühnel, Crusader Art of the Twelfth Century, Berlin 1994, p.31)が、一方で「岩のドーム」とマホメットの足跡が、昇天教会とキリストの足跡に影響されたと考える研究者もいるようです(Perween Hasan, “The Footprint of the Prophet”, in: Muqarnas, Vol.10 (Essays in Honor of Oleg Grabar), 1993, pp.335.)。

(註15)イメージ聖遺物については、さしあたりHerbert L.Kessler/Gerhard Wolf(Hg.), The Holy Face and the Paradox of Representation, Bologna 1998; 木俣元一、「キリストのイコンにおけるイメージと刻印」、『西洋美術研究』11号(2004年)、pp.87-93; 鐸木道剛、「イコンとチャンス・イメージ:イコン論の反自然」、『自然法と文化』(水波朗ほか編)、創文社 2004年、pp.241-267等を参照のこと。

(註16)Karl Heinz Schreyl, Hans Schäufelein. Das Druckgraphische Werk, Bd.1: Katalog, Nördlingen 1990, p.88.

(註17)Schreyl, op.cit., p.83. Cf. Friedrich Winkler, “Dürers kleine Holzschnittpassion und Schäufeleins Speculum-Holzschnitte, in: Zeitschrift des Deutschen Vereins für Kunstwissenschaft Bd.8(1941), pp.197-208.

(註18)Schreyl, op.cit., p.82ff.

(註19)キリスト昇天の図像全般については主としてS.Helena Gutberlet, Die Himmelfahrt Christi in der bildenden Kunst von den Anfängen bis ins hohe Mittelalter, Leipzig et al. 1934; A.A.Schmid, “Artikel: Himmelfahrt”, in: Lexikon der christlichen Ikonographie, Bd.2, Freiburg 1970, Sp.268-276等を参照。

(註20)Worm, op.cit., p.318.

(註21)Gerhard Wolf, “Fels und Wolke”, in: Glaube Hoffnung Liebe Tod: Von der Entwicklung religiöser Bildkonzepte, Wien/Klagenfurt 1995/96, pp.454-451; Georges Didi-Huberman, “Christi Himmelfahrt”, in: op.cit., pp.460-461;

(註22)ここでは予型論の手引書の一つ、『貧者の聖書』に関する註解書Christoph Wetzel/Heike Drechsler, Biblia pauperum/Armenbibel: Die Bilderhandschrift des Codex Palatinus latinus 871 im Besitz der Biblioteca Apostolica Vaticana, Stuttgart/Zürich 1995を挙げておきます。ちなみに(図23)は当該写本中の挿絵です。

(註23)Hans-Joachim Krause、”Imago ascensionis” und “Himmelloch”: Zum “Bild”-Gebrauch in der spätmittelalterlichen Liturgie”, in: Skulptur des Mittelalters: Funktion und Gestalt, hg.v.Friedrich Möbius/Ernst Schubert, Weimar 1987, pp.280-353.なおハッレ参事会教会における聖遺物容器を用いての昇天儀式については、本誌69号中の拙稿「扮装好きな二人のアルブレヒト」中で紹介しています。

(註24)Moritz Woelk, Bildwerke vom 9. bis zum 16. Jahrhundert aus Stein, Holz und Ton im Hessischen Landesmuseum Darmstadt, Berlin 1999, pp.46, 329-332; Johannes Tripps, “Sakrales Spiel als Motivquelle der Miniaturmalerei: Gedanken zum Oeuvre der Gebrüder Limburg und ihrer Zeitgenossen”, in: Kunst und Liturgie, hg.v. Anna Moraht-Fromm, Ostfildern 2003, p.192f.

(註25)Tripps, op.cit., p.190ff.

(註26)F.A.Obermayr, Bildergalerie katholische Missbräuche, Frankfurt/Leipzig 1784, p.164; Cf. Krause, op.cit., p.336f.

(註27)Friedrich Winkler, Dürers Zeichnungen, Bd.2, Berlin 1937, p.131, Kat.Nr. W.464.

(註28)Fedja Anzelewsky, Albrecht Dürer. Das malerische Werk, 2.Aufl., Berlin 1991, Textband, pp.221-228.

(註29)Karel van Mander, The Lives of the Illustrious Netherlandish and German Painters, ed. by Hessel Miedema, Doornspijk 1995, p.94f. (fol.209r).

(註30)この第二次イタリア滞在におけるデューラーによる多面的な技量の誇示については、かつて『デューラーと名声』(中央公論美術出版社 2001年)で詳細に論じたことがあります。その一部については「デューラーの≪蠅≫をめぐる謎」というタイトルで、本誌の紙媒体での最終号62号(2003年)でも簡潔にまとめています。

【付記】本稿の一部は科学研究費補助金基盤研究(B)(課題番号23320030,研究代表者:秋山聰)の成果によるものです。

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