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【第8回】 香港の「青山通り」に込めた香港市民の思い

香港に「青山通り(青山公路)」があることを知っている日本人は少ないと思われる。ましてやその意味を知っている人はさらに少ないであろう。かつて香港勤務をしている時に、香港人の部下からこの青山通りの話を聞いて驚いた。地図の上では、香港の九龍半島の北西の新界地区にある。屯門(ツンムン)と元朗(ユンロン)を結ぶ道路で、昔はひなびた田舎の狭い道路であったという。実際に行ってみるとトラックやトレーラーなどの業務用車がひっきりなしに走っており産業道路のような幹線道路であることに目を見張った。

青山胤通
(from Wikimedia Commons)

この青山通りは、日本人の青山胤通(あおやまたねみち)医学博士の名前に由来していると聞いたので、さらに詳しく知りたいと思い、香港の西にある上環(シャンワン)の香港医学博物館に行って調べたほか、各方面の関係者にヒアリングなどを行った。その結果、香港のために日本人が命がけで取り組んだプロジェクトがあったことが分かった。日本人医師団が当時香港で流行していた伝染病を究明するため不眠不休で調査し、それがペストであることを突き止め対処法を発表したというものである。その裏には遺体解剖調査の過程で自らもペストに罹り、高熱で倒れ意識不明の危篤となり死線をさまよったという青山医師らの命がけの闘いがあった。香港のために、青山医師らが自らの危険を顧みず命を削って調査してくれたことに対する感謝の気持ちを込めて、香港人が120年前、当時まだ名もないこの香港の道路を「青山公路」と命名したことが分かった。

それは1894年(明治27年)のことである。香港では原因不明の伝染病が流行した。香港は人口密度が高く、住民が密集して暮らしており、衛生状態も悪いため、瞬く間に多くの市民が感染し命を失った得体の知れない伝染病が香港全土に広がっており、人々は恐怖におびえていた。
香港政庁(イギリスの植民地としての香港政府の呼び名)は、もはや自力では対処できないと判断し、原因究明と対策の助けを日本政府に求めた。事態の重大さを知った日本政府は、直ちに伝染病研究所や東京帝大医学部医学部に香港への緊急支援を指示した。これを受け調査医師団がすぐに組成されて香港へ向かった。そのチームは、伝染病研究所の北里柴三郎博士と東京帝大医学部教授の青山胤通医師を責任者とする医師団6人で構成された。

まだ飛行機が無かった時代だったため、1894年6月5日に急ぎ横浜港を船で出航し、7日間かかって6月12日にようやく香港に到着した。到着後、医師団は直ちに香港島の英国系のケネディタウン病院で実態把握や解剖などの調査研究に取りかかった。原因不明の伝染病で亡くなった人が続々と運び込まれ、遺体の臓器を解剖してそこから細菌を顕微鏡で見つけ出す研究が、昼夜を分かたず懸命に行なわれた。

そして、ついにこの伝染病の原因がペスト菌であることを突きとめた。病原菌はドイツのロベルト・コッホ研究所にも送られ確認がなされた。
医師団は原因がペスト菌であることを香港政庁に詳細に報告し対処法が提言された。こうして香港全土に猛威を振るった伝染病も下火に向かったのである。当時の香港の記録では、ペスト(香港では黒死病と呼んだ)に感染した人は2,679人で、そのうち亡くなった人は2,552人。致死率は実に95%に上った。

香港政庁は日本の素早い調査と成果を大変評価し、日本に感謝の意が示された。日本人医師や日本国総領事などを招いた感謝と慰労の会が香港のホテルで開催された。
ところが青山医師はパーティーから帰ったその晩、40度の高熱で倒れた。頓服薬を飲んでも熱は下がらず、わき腹にしこりができ、自らもペストに感染したことを自覚した。研究調査は2次感染を防ぐため慎重に行ってきたが、多くの遺体を調査したこともあり、解剖の際に感染してしまったと思われた。他にも調査団の日本人医師2名が同じようにペストに感染し倒れた。

香港の日本総領事館は大変驚き、日本政府に緊急打電した。新聞でも「青山医師危篤、調査中に自らもペストに感染」の報道は日本や香港で大きく伝えられた。香港では回復を祈る集会も開かれたという。
青山夫人には、青山医師と親しくしていた森鴎外が危篤の状況を伝えた。夫人は「主人は任務で香港へ出発する時、自分は生きて帰れないかもしれないが、香港で伝染病の研究だけは立派に成し遂げなければならないと悲壮な決心をして出かけました。香港でペストに感染したと聞き、もはや無き命と諦めています」と語ったとの記録がある。

危篤に陥った青山医師らの命を救うため、日本からも医師が駆けつけ、イギリスの軍艦内の診察室であらゆる薬や治療が施された。当時はペストの致死率が極めて高く、感染して助かるというのは奇跡に近いことであったが、青山医師はまさに奇跡的に一命を取りとめることができた。ただ、同じく死線をさまよっていた日本人医師2名については、1人は助かったものの、もう1人は懸命の治療にもかかわらず息を引き取った。

かつてペストはヨーロッパで猛威を振るい多くの死者を出した。その後世界に伝染し、明治の初めの頃は中国広東省など南部で感染が広がり、1894年(明治27年)に香港に広がった。その2年後には日本にも持ち込まれ、横浜でアメリカからの乗組員が感染し日本初のペストによる死亡例となるなど、伝染病の拡大は国を超えてグローバルに広がりうることを示した。

英語名は“Castle Peak Road”
(from Wikimedia Commons)
青山公路は現在では
幹線道路となっている
(from Wikimedia Commons)

青山医師が一命を取りとめたニュースは香港に大きな感動を呼んだ。
北里博士は医師団の総責任者としてペスト菌を発見し、輝かしい功績を歴史に残した。一方、香港の人々は、ペスト菌発見のために自ら先頭に立って陣頭指揮し、危険な解剖も自ら行い、昼夜の厳しい研究作業を厭わず行ってくれた実質的な責任者が青山医師であったことを知っていた。命がけの研究の責任者である青山医師の功績に対する感謝の意味を込めて、名前を顕彰し長く後世に残したいと、無名だったある道路が「青山公路(青山通り)」と命名されたのである。

青山公路は、現在では産業用の幹線道路になっていることは既に書いた。元朗の工業地帯からの製品や中国広東省からの洋服や電気製品を積んだコンテナがトラックで運ばれ、元朗から青山公路に入り、終点の屯門に行き、そこから屯門通り(屯門公路)を通ってクワイチョンの香港の大きなコンテターミナル港に行く。港では製品が日本や欧米へ輸出されたり、原材料が輸入されたりと貿易につながる物流の結節点の役目を果たしており、青山公路は重要なルートとなっている。

自らの危険を顧みず、人のため、世のために尽くす日本人は、昔から数多くいた。香港の地においても人々の医療や生活の発展のために尽くした日本人がいたからこそ、日本人が一目置かれているのであり、日本企業の進出など経済的な面だけではない。そのことに、私は深い感動を覚えた。


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