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【第8回】香港の伝染病を究明し、香港の市民を救った日本人医師団

明治の時代に、日本人の医師団が香港へ行き、香港に蔓延していた伝染病の究明に命がけで挑み、解決した人たちがいたことはあまり知られていない。

それは日本人の医師団が当時、香港での原因不明の伝染病を調べ、解決策を講じるために不眠不休で調査し、その原因がペストであることを突き止め対処法を発表したが、自らも遺体解剖調査の過程でペストにかかり、高熱で倒れ意識不明の危篤となり死線をさまよった青山胤通(あおやまたねみち)医師らの命がけの闘いであった。青山医師らが自らの危険を顧みず、香港の人々を救うために命を削って伝染病の究明をしてくれたことに対する香港人の感謝の気持は、当時多くの人にあったという。

それは明治27年(1894年)のことである。香港では原因不明の伝染病が流行した。香港は人口密度が高く、住民が密集して暮らしており、衛生状態も悪いため、瞬く間に多くの市民が感染し命を失った。その原因がペストであることがわからず、得体の知れない伝染病が香港全土に広がり、人々は恐怖におびえていた。

北里柴三郎氏
(from Wikimedia Commons)

香港の当局は、もはや自力では解決できないと判断し、原因究明と対策の支援を日本政府に求めた。事態の重大さを知った日本政府は直ちに伝染病研究所や帝大医学部に香港への緊急支援を要請した。これを受け調査医師団がすぐに組成されて香港へ向かった。そのチームは、伝染病研究所の北里柴三郎博士と東京帝大医学部教授の青山胤通医師を責任者とする医師団6人で構成された。

まだ飛行機が無い時代であったため、1894年6月5日に急ぎ横浜港を船で出航し、7日間かけて6月12日にようやく香港に到着した。到着後、医師団は直ちに香港島のケネディタウン病院で実態把握や解剖などの調査研究に取りかかった。原因不明の伝染病で亡くなった人が続々と運び込まれ、遺体の臓器を解剖してそこから細菌を顕微鏡で見つけ出す研究が、昼夜を分かたず懸命に行われた。

そして、ついにこの伝染病の原因がペスト菌であることを突きとめた。その病原菌はドイツのロベルト・コッホ研究所にも送られ確認がなされた。
原因がペスト菌であることを、香港の政府当局に詳細に報告し、ネズミ駆除や煮沸消毒など種々の対策が提言された。こうして香港全土に猛威を振るった伝染病も下火に向かったのである。当時の香港の記録では、ペスト(香港では黒死病と呼んだ)に感染した人は2,679人で、そのうち亡くなった人は2,552人。致死率は実に95パーセントに上った。

香港政府当局は日本の素早い調査と成果を大変評価し、日本に感謝の意が示された。そして日本人医師や日本国総領事などに対して感謝と慰労の会が香港のホテルで開催された。ところが青山医師はパーティーから帰った晩に、40度の高熱で倒れた。頓服薬を飲んでも熱は下がらず、わき腹にしこりができ、自らペストに感染したことを確信した。それまで研究調査は二次感染を防ぐため慎重に行われてきたが、多くの遺体を扱ったこともあり、解剖の際に感染してしまった。他にも調査団の日本人医師2名が同じようにペストに感染し倒れた。


青山胤通氏
(from Wikimedia Commons)

香港の日本総領事館は事の重大さに驚き、日本政府に緊急打電した。当時の様子は新聞でも「青山医師危篤、調査中に自らもペストに感染」と報道され、日本や香港で大きく伝えられた。香港では回復を祈る集会も開かれ、多くの香港市民が心配して事態を見守ったという。

青山夫人への連絡は、青山医師と親しくしていた森鴎外が危篤の状況を伝えた。夫人は「主人は任務を受けて日本を出発する時、自分は香港から生きて帰れないかもしれないが、香港で伝染病の研究だけは立派に成し遂げなければならないと悲壮な決心をして出かけました。香港でペストに感染したと聞き、もはや無き命と諦めています」と気丈に語ったとの記録がある。

ペストに感染し危篤に陥った青山医師らに対する治療は、日本からも医師が駆けつけ、あらゆる薬や治療が施された。当時はペストの致死率が極めて高く、感染して助かるというのは奇跡に近いことだったが、青山医師はまさに奇跡的に一命を取りとめることができた。ただ同じく死線をさまよっていた他の日本人医師2名については、1人は助かったものの、もう1人は懸命な最新治療にもかかわらず息を引き取った。

かつてペストはヨーロッパで猛威を振るい多くの死者が出た。その後世界に伝染し、明治の初めの頃は中国広東省など南部で感染が広がり、1894年(明治27年)には香港に広がった。その2年後には日本にも持ち込まれ、横浜でアメリカからの乗組員が感染し日本初のペストによる死亡例となるなど、伝染病の拡大は国を超えてグローバルに広がりうることを示した。

青山医師が一命を取りとめたニュースは香港の人に大きな感動を呼んだ。
北里柴三郎博士は医師団の総責任者としてペスト菌を発見し、輝かしい功績を歴史に残した。一方、香港の人々は、ペスト菌発見のために自ら先頭に立って陣頭指揮し、危険な解剖も自ら行い、昼夜を分かたず過酷な研究作業をいとわず行ってくれた実質的な責任者が青山医師であったことを知っていた。このため、香港市民の代表が、命がけで研究し責任者でもあった青山医師の功績に深く感謝の意を伝えたと言われている。

香港に6年間暮らしていた私はこのことに深い感動を覚えた。自らの危険を顧みず、世のため人のために尽くす日本人は昔から数多くいた。例えばアフリカの黄熱病研究で自らも感染し命を捧げた野口英世博士もそうである。また台湾でも明治時代に堀内次雄医師(細菌学博士・台湾総督府医学校長)らの日本人医師団がペスト撲滅対策に命懸けで取り組み成功した。

香港の地においても香港人の医療や生活の発展のために尽くした日本人がいたからこそ、日本人が一目置かれているという面がある。日本は、企業の香港進出など経済的な面だけで一目置かれているのではないということを認識してほしいと思っている。1997年に香港は中国に返還されて20年余が過ぎ、更なる香港の発展と香港人の心の中にある将来への希望と不安に共感し、香港と日本の絆や民間同士の交流を深めていくことの大切さを改めて実感した。


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