ヒエロニムス・ボス、愚者の石の切除

身体をめぐる断章 その11

内臓――人体のモノ化

小池寿子(こいけ ひさこ 国学院大学教授)



内臓という意匠

 16世紀スペインの解剖学者フアン・デ・バルベルデの医書に、甲冑と内臓を描いた挿絵がある(図1)。いわゆる剥皮人体の一種だが、トルソとして寸断された人体胴部が甲冑をまとい、内臓はあたかも甲冑の装飾と化してしまっているところが意表をつく。内臓の意匠とでも呼ぶべき作品だ。ときは近代解剖学の黎明期。バロックの奇想が解剖学書に思いがけない内臓の華を咲かせたというべきであろうか。
 バルベルデ(1525−87)は、アンドレアス・ヴェサリウスが著した解剖学の金字塔『人体の構造について』を縮小したスペイン語版を1556年にローマで出版し、原書の挿絵3分の2を借用して、かつ訂正修正すべき箇所を指摘した。版型が小さく、簡潔にして平易な日常語を使ってコンパクトな解剖手引書に徹した同書は大きな人気を博し、イタリア語、ラテン語、オランダ語に翻訳されて15版を重ねるベストセラーとなった。
 当然ながらヴェサリウスは、この後継者の成功を愉快には思わなかったらしい。彼はバルベルデを、解剖はおろか医学と基礎知識に無知で、金儲けのためにスペイン語で解説した、と酷評している。さらにバルベルデの師でヴェサリウスに師事したレアルド・コロンボも「バルベルデは無教養で生半可な人物であり、私からわずかな解剖学の知識を得たに過ぎない」と嘆いているが、本人は解剖学の祖ヴェサリウスに多大な敬意を払って追従しながら、独自のバロック的意匠を盛り込んで、解剖学書挿絵の新境地を開拓したのである。

まずは内臓から

 さて、西欧中世の医学は、アラブを経て12世紀に移入されたギリシア・ローマ医学を継承し発展していったのであるが、死体を不浄とみなす古代以来の見方は、医学の諸分野の中でも解剖学の発達に少なからぬ影響を与えたと思われる。何となれば、解剖学は死体がなければ実習や研究ができないからだ。現代では死後の自分の死体を解剖学実習のために提供することを生前に契約する献体のシステムがあり、さらに今では、献体された死体を半恒久的に保存するための処置をほどこし、そうした死体の各部分を自在に取り出して見本や研究材料にできる、ドイツで開発されたプラスティネーションという技術があることをご存知の人も多いであろう。しかし、誰しも自分の身体が、死後ばらばらにされるのを潔しとするには相当の覚悟がいる。そもそもプラスティネーションは、解剖用に献体する人の数がけっして多くはないために考案された苦肉の人体見本なのである。
 死体に対する不浄観から、古代医学移入以降のヨーロッパでも数世紀にわたって解剖学者が直に執刀することはなく、より身分の低い執刀師に解剖させるのが常であった。さらに解剖される人体は罪人のものに限られ、処刑された死体が、各地に誕生し始めた大学医学部の所有するところとなった。絞首刑などに処せられる罪人は、即地獄行きの大罪を犯した者であるから、その身体をいかに解体しようとも、死後の道行きには関係なかったのだ。
 しかし医学の進歩にしたがって、おのずと解剖にふさわしい死体が不足する。医学生たちは墓荒らしをして死体を盗み出し、解剖の練習をしたとされているが、それは彼らに限られたことではなく、人体の構造について正確な知識を得ようとしたルネサンス期の芸術家たちの中にも、解剖の死体を求めてさまざまな手段を講じる者がいた。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチが知られており、30体あまりを自ら解剖し、各段階各部分を素描に残した彼の功績は、医学史上きわめて重要であるとともに、芸術と医学の蜜月ともいうべき16世紀解剖学書挿絵の興隆をもたらしたのだった。
 ここで、不法の解剖の現場を見つかってしまった医学生を描いたと見られている14世紀の写本挿絵を見よう。腹腔を開かれて地面に転がる死体を前に、刀と肝臓を手に振り返る人物が描かれ、その周囲にはすでに、摘出された腎臓、腸、心臓、肺が図示されている(図2)。医学部の先駆となったボローニャ大学の解剖学者モンディーノ・ルッツィ(1275頃−1326)による中世最初の解剖学書『アナトミア』によると、解剖医自身は執刀せず、不浄な死体に手を下すのはより身分の低い執刀師であり、自身は動物解剖からの類推によって人体の構造を把握していたことが明らかとなっている。しかし実際には、実習のために医師や医学生は執刀の経験をもっていたに相違あるまい。
 この解剖学黎明期において、解剖の手順も定められていった。フランスの外科医ギイ・ド・ショリアック(1300−1368)は、モンディーノの実践的な解剖学書にもとづきながら、さらに解剖の順序を、1.「栄養に関わる部分」(腹腔の内臓)2.「霊的・精神的部分」(胸郭の内臓)3.「魂をつかさどる生命的部分」(頭蓋器官)4.「末端部分」(手足)と、4段階に定式化したのである。そこには動物的・欲望的魂、すなわち生命の維持や生殖に関わる魂を横隔膜の下におき、順次、愛などの感情をつかさどる魂は心臓に、神的あるいは精神的な、つまりより高次の魂は頭部にあるとするプラトン、アリストテレス以来の魂のありかについての思想が反映されている。しかし何より、その順番の根拠は腐敗にある。もっとも腐敗しやすい部分から解剖し、極力、腐敗による死体の破壊とそこから漂う腐臭による嫌悪感を免れようとしたのであった。私たちでも、食肉の臓物の腐敗のすみやかさは日常的に経験しているであろう。
 ちなみに1、2は東洋医学で言う五臓(肝・心・脾・肺・腎)六腑(大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱)にあたる。儒教の教えが根付いていた日本でも、やはり死体を傷つけることに抵抗があったものの、オランダ医学(蘭学)を移入して解剖は腹腔から始められた。腑分けである。日本で最初に官許を得て人体解剖を行ない、絵図に示したのは、山脇東洋によって1754年に京都で行われた、やはり刑死体解剖の記録『蔵志』である。以降、誕生した日本の解剖絵図が西洋と大きく異なるのは、何より、それが彩色されていることだ。生々しい色を帯びた内臓がリアルに広げられ、もぎ取られた手足やその断片が散乱するかと思えば(図3)、口を歪ませ、無念の表情もあらわな頭部もある。解剖されてなお、自在にポーズをとり、毅然として立つ西洋の解剖図と比べると、死体はすでに肉の断片と化していながら、そこはかとなく生気が漂っているところが不気味だ。

 

(図1) バルベルデ 甲冑をまとった胴部 銅版画 1556年

(図2) 解剖する医学生 オクスフォード ボードレイアン図書館所蔵写本挿絵 14世紀
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(図3) 小石元俊『平次郎臓図』 吉村蘭洲画 1783年  財団法人 日本医学文化保存会・医学文化館
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内臓の聖人

 ヨーロッパの解剖人体が一種の威厳を保ち続けたのには、古代以来の人体そのものへの敬意と関心に加え、地上のあらゆる生物における人間の優位性、尊厳性という理念が作用していると考えられよう。ついでキリスト教は、まさしく人間を神の似姿とし、すべての動植物を統べる者と位置づけたわけであるが、そればかりではあるまい。古代以来、連綿として行われてきた人間の尊厳を剥奪するような拷問や処刑を「殉教」として位置づけ、むしろ逆に、聖性獲得への試練とみなす強靭で屈折した魂が、身体のあり方を方向付けたのではないだろうか。腐敗が人間のもっとも忌むべき末路であるならば、内臓摘出ほど聖性への近道はないことになる。
 内臓を取り出されて殉教した聖人として最もよく知られるのは、エラスムスである。
 ローマ帝国末期のディオクレティアヌス帝時代、シリアはアンティオキアの司教であったエラスムスは、迫害を逃れてレバノン山脈に逃れたが、まもなく捕らえられ、やがて南イタリアはカンパニアのフォルミアに移される。そこで、さまざまな軽度の拷問を受けたあと、ついに、腹を引き裂かれて内臓を巻轆轤(まきろくろ)で巻き上げられて殉教したという。落雷があっても彼の頭上は静穏であったために、とくにナポリ港を出入りする水夫たちの守護聖人とされ、また、嵐の前後に船のマストに起こる青い放電は「聖エルモの火」と呼ばれて尊ばれている。
 エラスムスの殉教場面には、しばしば、長くごろごろと太い腸をぐるぐる巻き上げる大仰な「巻轆轤」が描かれるが、15世紀フランドルの画家ティエリー・バウツの描いた殉教図では、精巧な巻轆轤に横たえられた聖人が、細く切り裂かれた腹部から、これまた細い腸をするすると巻き上げられている(図4)。死の恍惚というより空ろにも見える彼の表情は、内臓を抜き取られる身体の空虚さゆえなのだろうか。バウツは他にも殉教者図を描いているが、いずれもリアリティを欠いており、スリムな人形のような人体は「痛み」という苦役からことごとく免れているようだ。
 しかし、エラスムスの苦痛は並のものではなかったはずだ。長引く苦痛がないように一気に首を切り落とせばよいものを、エラスムスと等しく想像を絶する拷問のあげく、腸を引きずり出された聖人ウィンケンティウス(図5)について、かの『黄金伝説』の筆者ヤコブス・デ・ウォラギネは、つぎのように伝えている。
 同じくディオクレティヌス帝の時代、スペインはサラゴサの助祭であったウィンケンティウスは、篤い信仰心と熱烈な説教ゆえに、州総督ダキアヌスの命によって、司教とともにバレンシアに連行され、まずは手足を思いっきりねじ上げられる。しかし痛みに屈するばかりかそれを至福として笑い飛ばすと、鞭と棍棒で打たれるという拷問が加えられ、さらに鉄の櫛であばらを掻きむしられた。身体のいたるところから血が噴き出し、肋骨がばらばらになり、内臓があらわれるのをものともせず、手加減をせぬようにと言い放つと、ひるむ刑吏たちを尻目に、自ら火格子に上ったウィンケンティウスは、自身の身を焼きあぶらせ、灼熱した鉄の針や釘に刺した。刑吏たちが火に塩を投げ込むと、塩は傷口に入って燃え立ち、彼の身体の各部分からは、ついに内臓がはみ出してぶらりと垂れ下がった。その後、つぎなる拷問に向けて身体を休めるよう柔らかな布団に寝かせられた彼は、ほどなく天に召されたという。しかし苦難はそれにとどまらない。遺体は野ざらしにされたのだ。しかし天使の保護を受けて、いかなる鳥獣もそれを食らうことはなく、さらに石臼をつけて海に放り込まれても、浜辺に漂着して手厚く葬られたという。ウィンケンティウスを待っていたのは、勝利の棕櫚と月桂冠をもって天上へと導く天使であった。
 ウォラギネの記述は、いつものように執拗である。しかも身体を細切れにされた聖ヤコブスの場合と比べても、拷問の詳細はむごく残虐であり、強烈に痛みの感覚に訴えかける。しかしその拷問のあり方について、アウグスティヌスの言葉はきわめて示唆的だ。彼はつぎのように語ったという。
 「彼は、きたえられるために苦しめられ、教えられるために叩かれ、堅固になるために突かれ、浄化されるために焼かれた」「わたしたちの前にくりひろげられるのは、よこしまな裁判官と残忍な刑吏と不屈の殉教者とがおりなす驚くべき演劇、残忍と柔和との抗争劇である」。
 ローマ帝国期に繰り広げられたキリスト教徒の殉教は、ローマ人の好んだ「サーカス」とひとしく見世物であり、演劇なのである。そこに身をさらした殉教者たちの身体から流れ出る血と、そして鮮烈な内臓は死の劇場を彩る。興奮と熱狂の坩堝と化した身体の劇場からは、恐るべき屈強な信仰心が生み出されたのであった。

公開解剖から死物展示へ

 魂の浄化のために身を捧げた殉教者たちの姿が消えてなお、キリスト教世界には身体を痛めつけて聖性を高めようとする多くの聖人たちが連なったが、解体のスペクタクルを引き継いだのは拷問と処刑であり、そして公開解剖という新たな劇場であった。
 刑死体を使っての公開解剖を最初に行ったモンディーノにつづいて、ボローニャやパドヴァ、モンペリエを初めとする屈指の大学医学部では、古代円形劇場にならった円形教室での公開解剖が通例となった。階段状の席をもつこうした教室での解剖のようすは、たとえば解剖学書の扉絵に描かれている。ヴェサリウスの『人体の構造について』の挿絵(図6)では、彼が、医学を志す者をはじめ並み居る観衆を前に、誇らしげに死体を見せている。最初の解剖部分である内蔵の解剖が扉絵を飾っているのだ。そして、腹腔からのぞかれた人体の恐るべき真実がそこにある。
 まるで鳥の皮のような黄色の大網と、それを掻き分けたときに現れるピンク味を帯びた腸、胃や膀胱、また茶褐色の肝臓や結腸、緑色の胆嚢などの臓物の群れが血潮を浴びて波打つ。それは、滑らかな肌色の皮膚の下に秘められた汚濁の洞窟。人々は驚嘆し、嫌悪し、そして賛嘆する。実際に臨席している者ならば、色彩を見、さらに臭気をかいでいるはず。「敏速に、愉快に、正確に」とは、ヴェサリウスのモットーであった。モンディーノ以来、解剖は腐りやすい部分から四日間で、しかもできるならば気温の低い冬の時期に行われたが、この従来の方式はヴェサリウスによって改善され、骨格、筋、循環、内臓の各系を系統的に解剖することが提唱された。それでも腹腔からの解剖は定式である。ヴェサリウスの至言は腐敗と腐臭との戦いである解剖の極意を表しているのだ。
 しかし解剖によって明らかとなったのは、医学的知識ばかりではなかった。かぐわしい生の内に潜むおぞましい実態。それは『伝道の書』の至言「空の空なるかな、しかしてすべては空なり」の思想に端的にあらわれている、生のはかなさである。扉絵の死体の背後 で大鎌を持って嘆くように虚空を仰ぐ骸骨は、まさしくいま暴かれた真実を告げている。
 同じく、17世紀オランダ医学の発達を告げるレイデン大学での公開解剖学のようすを描いた作品では、こうした「はかなさ」の思想がよりあきらかだ(図7)。観衆に混じった数体の骸骨は、「人はうたかたの泡のごとし」「われらは塵であり、影にすぎない」「最後には死が待っている」「生とははかなきもの」などと記した旗を持ち、解剖の公開が「メメント・モリ(死を思え)」の教訓劇でもあったことを示している。そこで神が創造した人間が腐臭と汚濁に満ちた存在であることをむごくも知らしめるのは、何よりもまず、内臓という臓器がもつ異様な形体と色彩、そして臭気だったのである。
 刑死体を使った公開解剖が定着した頃、デカルトの人間機械論やハーヴィの血液循環説は人体を神の創造という信仰から切り離し、実験科学の素材に貶める道を開いていったように思われる。一方、顕微鏡の開発や注射液の改良、組織固定血管注入法の開発によってミクロな研究分析が可能となり、生体組織の保存と展示という分野が開かれていった。医学と芸術の新たな、そして最後の蜜月が訪れたのだ。薬剤師として出発し、医学のメッカ、レイデン大学で解剖学の学位を取得したフレデリック・ルイシュ(1638-1731)は、医業のかたわら、「解剖学陳列室」という奇想に富んだ死物展示を行い、王侯貴族からも称賛と驚嘆をあびた。実物は現存しないが、その一部は同時代の銅版画家によって版刻されて今日まで伝えられている(図8)
 木製の台には胆嚢と尿管から摘出した結石のあいだに、導管、血管が樹木のように生けられた内臓の堆積物が置かれ、その頂に胎児が虚空を仰いで立つ。左右の胎児はそれぞれ、死神の持物である鎌、そして腹膜網のハンカチを手にしている。組織固定血管注入法を完成させたルイシュは、生体組織を凝縮乾燥させて、生花のようにオブジェとして展示したのである。注入液の成分はタルク、白色ワックス(または脂肪)、辰砂(赤色結晶をなす硫化第二水銀)などを混合したものらしく、清浄液にはラヴェンダー油やテレピン油、保存液には67%のエタノールに黒胡椒を加えたと推察されているが、その秘密はいまだに明らかにされていない。まるで往時の画家たちの絵具が秘密裡に調合されていたごとくである。
 「なぜ現世の事物を切望するというのか」「死は、無防備な子供でさえ容赦はしない」。版画にともなう銘文には、これらの「作品」が「メメント・モリ」「はかなさ」の趣向であったことを物語っている。しかしその背後に、人間精神の内奥に潜む残虐な好奇心が垣間見えるではないか。
 ルイシュの作品をはじめとしたこうした「珍奇」な展示物は、好事家の蒐集にかかり、各地に存在したとみられる。しかしそれらは、理性と啓蒙の時代に瓦解したキリスト教信仰に代わって唱えられた人間倫理にもとるとして激しい道徳的非難を受け、闇に葬り去られたのであった。以降、飛躍的に進歩した医科学は、痛みなくして人体内部を治療し、患者にも見せる技術を獲得している。しかし痛みの欠如は、神に見離された人体のモノ化を加速しているように思えてならない。

(図4) ティエリー・バウツ 聖エラスムスの殉教(部分) ルーヴァン サン・ピエール教会 1462年
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(図5) 聖ウィンケンティウスの殉教 パリ 国立図書館所蔵写本挿絵Ms.nouv.acq.fr.16251,fol.78, 北フランス 1268-98年

(図6) アンドレアス・ヴェサリウス 『人体の構造について』扉絵 木版画 1543年
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(図7) レイデン大学解剖学教室での公開解剖  銅版画 17世紀
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(図8) フレデリック・ルイシュ『解剖学宝函』挿絵 銅版画 1701-17年
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主要参考文献

  1. ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説 1』前田敬作、今村孝訳 人文書院 1979年 「聖ウィンケンティウス」275-281頁
  2. A.S.ライオンズ、R.J.ペトルセリ『図説 医学の歴史』小川鼎三監訳 学研 1980年
  3. 「死にいたる美術―メメント・モリ」展 町田市立国際版画美術館・栃木県立美術館 1994年
  4. Marie-Jose Imbault-Huart, La medicine au Moyen Age a travers les manuscripts de la Bibliotheque Nationale, Paris,1983
  5. K.B.Roberts and J.D.W.Tomlinson, The Fabric of the Body. European Traditions of Anatomical Illustration, Oxford,1992

SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次

  • 身体をめぐる断章 その(1)――足 no.52(1995年12月発行)
  • 同上 その(2)――足―下肢 no.53(1996年7月発行)
  • 同上 その(3)――背中(1) no.54(1996年12月発行)
  • 同上 その(4)――背中(2) no.55(1997年6月発行)
  • 同上 その(5)――乳房 no.57(1998年6月発行)
  • 同上 その(6)――手―創造の手 no.58(1999年4月発行)
  • 同上 その(7)――手―癒しの手 no.60(2001年3月発行)
  • 同上 その(8)――手―不信の手[身体の内部へ] no.61(2002年4月発行)
  • 同上 その(9)――剥皮人体 no.62(2003年4月発行)
  • 同上 その(10)――愚者の石の切除 no.63(2004年4月発行)

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